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  Instagram: @the.container.tokyo   Present:   Blow   宮地祥平 Shohei Miyachi 13 December, 2021 – 28 February, 2022   Opening night: 13 December, 19:30-21:30 + live performance by Shohei Miyachi, 20:30   Catalogue   •   Diamonds Are Forever ft. The Container with Shohei Miyachi 28 January, 2022 At Club Metro, Kyoto In collaboration with: Jama […]

Soshi Matsunobe: Ghost of Copy

Ghost of Copy   松延総司 Soshi Matsunobe 26 July – 11 October, 2021   © Soshi Matsunobe, 2021. Ghost of Copy (Gray) #21, Photograph. . 「無形のもの」を捉えること。それは松延総司が変わることなく追求してきたテーマである。影を追っては、穴を探検し、隙間を調査しては、コンセプチュアル・アートの理論やミニマリストのモデルを使い、地「面」(または背「面」であろうか)を描いてきた。空間の物理性、あるいはその欠乏、箱や輪ゴムや小石といった、ほとんど注目されることのない、日常に存在する万物の美しさに対して、確かな関心を抱き、10年にわたって、彫刻やインスタレーション、ドローイング、写真の制作に取り組んできた。 . 点同士を接合する線、そして抽象の理論に対する興味の先には、松延総司の作品の根本的な特徴として、空間を静かに占める「虚無」がある。何かが「空」であることの荘厳な様子や、空白が醸す優雅、それらの流動的な状態を捉えようとする緻密な努力。松延の作品の魅力は、芸術とは硬直性や自己完結性に囚われず、変容しうるものであるという信念と、その無限性を表現していることにある。作品の美しさは、作品を生み出す制作過程と同様に、その捉えどころのなさに由来している。これらの作品は一瞬の静けさや、何かを沈思する瞬間を象っているのではないか。 . 作品の多くからは「無限性」が感じ取られる。決して掴めない影、見えそうで見えない光など、流動性が表現されている。例えば、手書きの斜線で埋め尽くされた壁紙や看板は、幾何学的なのか、有機的なのか。一見、具象的なようでもあるが、確実に抽象的であり、白黒(距離を取ると灰色に見える)の無限なシーケンスを創り上げているが、それはブラウン管アナログテレビの砂嵐(ノイズ)でランダムに現れる点のピクセル模様にも似ている。それなのに、近くでまじまじ見てみると、シンプルで優雅な美がある。瞬間的に捻られた輪ゴムが、黒い背景に浮いて「曲芸」を演じる、輪ゴムを題材とした写真(2012年、2018年)でも同様だ。我々の日常生活に当たり前のように存在する輪ゴムでさえ、驚くほど生と個性(そう、個性と言って何が悪い)であふれている。小綺麗でシンプルなのに、もつれて複雑な面を持っているのは、人間の人生さながらだ。 . 松延総司は今回、ザ・コンテナーで「Ghost of Copy」シリーズより新旧両方の写真作品を展示する。照明が落とされ、親密な雰囲気の展示空間を活かした、サイト・スペシフィックなインスタレーションである。滋賀の農村に置く彼の仕事場、スタジオ、周辺の自然、陶芸工房、彼の日常生活に登場するランダムなオブジェなど、様々なものや模様を描いた写真が発表される。彼の言葉を借りると、それぞれ、「反射、反転、反復」を強調する操作がなされている。また、イメージの魅力は、彼の他の作品でもそうだが、モチーフにヒエラルキーがないことと、正負のスペースの欠如にある。松延の制作活動全体に通じて言えるが、何かを定義することを避け、「中間」を捉える力は、ポジティブとネガティブが平穏に共存する抽象の尖点にイメージを創り上げ、被写体そのものではなく、その痕跡を強調する。 . グレースケールを優先し、デッドスペースを取り除くことで「相似」が写し出されていることも特徴的だ。それはつまり、リアルとバーチャル、具象と抽象、自然と人工、軽さと重さの接合だ。作品中、最も興味深いのは、幾何学的なものと抽象的なもの、自然物と人工物の「中間」が模倣されていることだ。どの正反対の境界も、―白と黒の間を繋ぐような― 美学的な方法によって、距離が埋められている。例えば、農業をテーマとした写真作品は、有機的な形状を一旦彷彿させるが、その模様は他方で、農業の機械化と大量生産を象徴しているのではないか。植物を被写体とした作品では、自然と数学の両方で現れる、幾何学とテッセレーション(平面充填)の模様が意識されており、19世紀後半から20世紀前半にかけ自然の形状と幾何学の関係性を表現したドイツ人写真家のカール・ブロスフェルトへのオマージュでもある。 . 本インスタレーションでは、ローテクなカルーセル・スライドプロジェクターを使って、「Ghost of Copy 」シリーズより約80枚の写真をザ・コンテナーの後方壁に投影する。この写真は、松延総司が10年以上にわたって考えてきたコンセプトや美学の多くが強調されており、彼の実践が要約されたかのようである。また、反復的なメカニズムで再生されるスライド・プロジェクションはバーチャルなスケッチブックのように作品を文脈化し、 哲学的で美しく、生理学的で知的な卓越した物語の表象を可能にしている。 Soshi Matsunobe is in a perpetual search for means to capture the intangible. He […]

Mark Kelner: Barcodes

  Barcodes   マーク・ケルナー Mark Kelner 12 April – 28 June, 2021     © Mark Kelner, 2021. Turquoise Marylin, digital print on primed canvas, 101 cm x 101 cm. . 芸術は先史時代の頃から人間とその文化を定義してきた。私たちは、壁画を見ては古代人の生き様や社会の在り方について知り、ギリシャ建築や遺物を見ては古代ギリシャ帝国の人々の生活や価値観について、ルネッサンス絵画を見ては当時の規範、技術、流行について学ぶ。芸術はつまり、人間の「他の生き物」からの差別化と、歴史文化の定義を可能にするものであり、人類の姿を映す鏡であり続けてきたのだ。これこそ芸術の強みであり、もっと言ってしまえば、その価値なのである。 20世紀がもたらした技術の進歩と豊かさや現代についての思想の変化は、我々の芸術の見方と価値づけに大きな変化を与えた。どこにでもオークション·ハウスが立つようになり、国際アート·フェアでも同様、一つの作品で数百万ドルもの売上が出せる「グローバルなアート市場」が広まった。芸術はあちこちでコモディティ化するようになり、作品所有者の社会的地位と権力を象徴するものに転化した。 当然、これらの現象は、従来の芸術の存在意義とは反している。芸術は、芸術家が文化を定義し、コミュニケーションのために使うツールであって、大金持ちが富とステータスを誇示するために対象化されるだけのものではない。どんなに美しくて崇高な作品でも、果たして何億ドルもの価値があるのだろうか?そしてあらゆる作品の制作者たちが今日生きていたら、我々現代人が消費主義的な価値を加えているのを見て、どう思うことだろうか。もっとも、ある作品の文化的価値がそんなに高いのであれば、どこかの金持ちの個人宅で公衆から遥か遠くに置かれてしまうより、美術館のように、パブリックドメインの場で鑑賞され、楽しまれるべきなのではないのか? アメリカ人芸術家のマーク·ケルナーが今回、ザ·コンテナーで展示する作品シリーズの問いはまさにそれだ。ケルナーのアプローチは、前作に続き、皮肉っぽい分かりやすさがあり、作品を見る人に対して消費主義と資本主義の再考を促す、彼の社会政治的センスと洒落た美学が発揮されている。本展「バーコード」では過去20年間にわたって芸術作品の最高額を叩きのめしたクラシック及び現代絵画の作品を、バーコードを彷彿させる白黒の線シルエットで再構成することで、簡素で素朴な形となるまで絵の内容と表現を切り詰めている。 世界中の人々から愛されてきた有名な絵画作品たちが、現代の消費主義の象徴とも言える、見慣れすぎたバーコードと衝突するのを見ると、芸術のコモディティ化のばからしさについて改めて考えさせられる。作品は、正真正銘のケルナー流と言おう、ポスターチックで、おぼろげに再表現されており、その矛盾した価値が露呈される、ポップ·アート的な魅力が出ている。バーコードという消費主義的商業文化の言語を通じて、高尚な芸術とグローバルな資本主義が織りなす虚偽を表している。我々の生活のありとあらゆる側面に関わる消費者主義に触れながら、高級な文化と低級な文化の交点を表現している。 再構成された絵画は下塗りされたキャンバスにデジタル印刷され、全てオリジナルの作品と同じサイズで作られている。本展では次の作品を展示する予定である。レオナルド·ダヴィンチの「サルバトール·ムンディ」65.5cm x 48.7 cm、1500年頃制作。2017年にクリスティーズで450,312,500米ドルというとんでもない金額で落札された(サウジアラビアのムハンマド·ビン·サルマーン皇太子に買われたという噂がある)。より安価な作品例では、アメデオ·モディリアーニの「赤い裸婦」、60cm x 92cm、1917年制作などがある。2015年にクリスティーズで中国人コレクターの劉益謙に170,405,000米ドルで落札されている。最安価なのは、誰が見ても分かる、アンディ·ウォーホルの「ターコイズ·マリリン」101cm x 101cm、1964年制作。2007年、非公開で8000万米ドルでスティーブン·コーエンに買収されている。通常では感動の涙をもたらす十点のセレクションが全て同時に展示されるわけだが、簡素化されてディテールが欠けていても、原画が何か一目瞭然だ。 また、本展の来場者は、作品と交流することもできる。展示エントランスに設置されたQRコード(本カタログにも掲載)をスマートフォンでスキャンすれば、原画についての情報が追加して得られる他、ケルナーがデザインしたバーコード·イメージの記念品の購入案内も受けられる。バーコードのシルエットでデザインされたフェイスマスク、絵葉書、トートバックなど、芸術のコモデイティ化のばからしさに皮肉がらずに問題提起している商品が、いわゆる「一般的なコモディティ」としてお買い求めいただける。 ケルナーによれば、他の企画に集中するため作業したりしなかったりで、本展のコンセプト化は何年かかかったらしい。ケルナーは、本展で取り上げられている絵画をバーコードの他にも幅広い手法で芸術表現を追求しているので、今後ますますの展開が期待されるプロジェクトの初展として東京の皆さんに届けられるのを、ザ·コンテナーの我々はとても嬉しく思う。本展が実現した発端となった会話も、実は新型コロナウイルスの感染が拡大した直前、2020年2月にワシントンDCでケルナーとミーティングをした時のことである。イギリス系アメリカ人芸術家のナタリー·クラーク(彼女も2018年にザ·コンテナーで「イントゥ·ザ·カーブ」という体感型展示を催した)のおかげで叶った出会いだったが、彼女の紹介によってケルナーと彼の作品と出会えたのは、新たな芸術家を発見できたという私の私的な体験に留まらず、アート·コミュニティの、芸術家と芸術業界との絆を深め、創造性の繁栄を援助する役割を表している。芸術が創り始められた大昔よりコミュニティが果たしてきた重要な役割である。 ケルナーの本展における新作は、絵画とポスターチックなデザインから構成された彼の作品体から自然と発展したものである。彼は長期にわたりグラフィック·デザインやマーケティング手法に興味を持ち続けてきたわけで、意図的であるかは不明だが、政治社会に異議を唱える一つのツールとして、作品の中心的なテーマとなることが多い。例えば、ワシントンDCのカルチャー·ハウスで最近飾った屋外型展示作品「プレジャーズ·プロミス(快適さの約束)」は、長さ120フィート(約36メートル)もあるが、煙草ブランド·ニューポートの「アライブ·ウィズ·プレジャー(愉快適悦)!」というスローガンを、地域社会の階級浄化と絡めながらからかっている。ブランドの表号であるタイプフェースと緑とオレンジの二色を使愛ことで、社会の高級化を表し、ニューポート社のマーケティングの空虚さを軽蔑している。「ソラリス」や「サイン&ワンダー」など他のプロジェクトでも、著名な芸術家やソ連のプロパガンダ·ポスターなどあらゆる芸術作品の像を線形化することで、新たな芸術言語を生み出している。 ザ·コンテナーで行うこの展示は、マーク·ケルナーにとって日本で初めて行う展示である。コモディティ化や消費主義を主題に、芸術の価値について再考を促す、インタラクティブな作品シリーズの新作を、消費主義者の世界首都ともいえる東京で公開するのは、なんとも巡り合わせが良かろうことか。 Since prehistory, art has been defining humanity and culture: […]

Simon Roberts: The Brexshit Machine

    The Brexshit Machine サイモン・ロバーツ Simon Roberts   23 December, 2020 – 7 March, 2021   The Brexshit Times (limited edition, 1000) Exhibition catalogue     © Simon Roberts, 2020. The Brexshit Machine. LED sign, 40 x 8 x 1.6 inches. . ブレグザゲドン、ブレグザポカリクス、ブレグジレント、ブレグコーシス、ブレクスクレメント、ブレグゼノミクス、ブレグスファクター、ブレグゾーシテッド、ブレグザイエティ、ブレグザイルズ、ブレグジペイティッド、ブレグジステンシャル、ブレグジタニア、ブレグジテッド、ブレグジティアーズ、ブレグジターニティ、ブレグジテスク、ブレグジティング、ブレグジティッシュ、ブレグジタイツ、ブレグジトクシシティ、ブレグマス、ブレグゾダス、ブレグゾーシスト、ブレグスパッツ、ブレグスプロージョン、ブレグズポカリプス、ブレグシット、ブレグシットショー、ブレグシック、ブレグステンション、ブレグスターナティ、ブレグススルー、ブレグジティンクト   風土と風景の描写を行き来するサイモン・ロバーツは、地政学や文化的アイデンティティについての思索を表現する手段として、写真を選択することが多い。頓知とユーモアを交え、寓話的な作風もって人と空間との関係性を描いたブリューゲルの絵画のように、ロバーツの作風も、写真中に人を点在させるなど、絵画的構成を取ることによって奥行きを感じさせる描写法が高い評価を得ている。社会や文化はアイデンティティや帰属意識から形成されるが、ロバーツは、共通歴史、集合的記憶、共愛など、文化地理的概念が社会に与える影響について、深い関心を抱いている。 森羅万象の美しさとは有機的で不完全なもので、人に関しては癖や短所から生まれるものであるとロバーツは理解しており、彼はその見識のもと、生粋のイギリス人らしく、冗談と遊び心もって、人や社会の欠陥を巧妙に表している。ロバーツの描写は何かに対する考証なのか、ただの肖像画法なのか、その間で揺れている。時には特定の出来事を捉えているようなのだが、自然と活動的生によってしか織り成せない、人と場所とモノがぴたりと揃ったかのような、偶然な瞬間や人生のカオスを捉えた作品の方が多い気もしなくはない。 私が特に魅了されるのは、ロバーツの、自身の芸術の「民主化」への熱心である。新たなアイディアを推進するためのクラウドファンディングや、公的な議論ができるプラットフォーム構築の支援などの幅広い活動がある。それらは、物事の概念性と公共性が交錯し、愛国心とナショナリズムが再定義されるきっかけをもたらしているとともに、21世紀の社会情勢に適った新たな手段により、多様性と非協調性を祝っている。そこから生まれるコミュニティやアイデンティティ 、インクルージョンこそ、社会運動や地域性、人々の勤労と娯しみを可能にし、最終的には文化や政治を表象するものとなるのだ。 イギリスがEU(欧州連合)から離脱するまで残り数日と迫っている今、ザ・コンテナーのささやかな空間にてロバーツの「ブレグシット・マシーン」(くそなブレグジットの構造)を展示できるこのタイミングは、至高だ。緑色のLEDにモノトーンに照らされた「ブレグジット用語」は、2016年に離脱が決まった際、一部イギリス国民の間では離脱後の社会変化に対する不安が高まったことで生まれた、「Brex(ブレグ)」で始まる様々な造語である。作品はイギリスの正式な加盟が終了し、移行期間が始まった2020年1月31日を記念するために作られたが、移行期間が終了する間際、今もなお、多くの「ブレグザイエティ(ブレグジット不安)」が残存している象徴として、ザ・コンテナーにて展示することとなった。作品は、アイデンティティの自己喪失を抱える一国の様子を伝えているだけでなく、変化の瞬間を取り巻く社会議論を捉えている。 本展で使用されている語彙は「ブレグジット・レクシコン(2016-2020)」から抜粋されたもので、ロバーツによれば、「ブレグジットの過程を伝えた見出しや術語のうち、代表的だったものを5000個ほど集めてデータベース化」した編集物である。リサーチとしてロバーツによって編集され、イギリスの来たる日の離脱を考証しながら4年に渡って生み出してきた、数々の作品のベースとなってきた。本カタログでは語彙集全体を再出版することにし、新たに追加された言葉や、ロバーツによってアーカイブ化された画像も含めることとした。語彙集はアルファベット順に並べられているが、その順番は政治家や専門家、メディアが一語一句使用した際に露呈された矛盾やポピュリズム的含意、美辞麗句を批判的思考的に表すためにある。   最後になるが、この度ザ・コンテナーで主催する「ブレグシット・マシーン」はARTINTRAとのコラボレーションであり、ヴァシリキ・ツァナコウとキャサリン・ハリントンが率いる国際プロジェクトである「複雑な状態:英国EU離脱年のアート」の一環である。当プロジェクトはブレグジットに対する現代美術家の反応を考証する試みとして、30人以上の作品を世界各地で展示しているものである。 BREXAGEDDON, BREXAPOCALYPSE, […]

An Ode to Tom

「トムに寄せて」 An Ode to Tom   三島剛  |  田亀源五郎  |  児雷也 Goh Mishima  |  Gengoroh Tagame  |  Jiraiya   21 September – 30 November, 2020   l-r: Untitled, Goh Mishima, Date unknown. Brush, pen, ink, paint, 282 x 380 mm; 無条件降伏 (“Unconditional Surrender”), Gengoroh Tagame, 1996. Pencil and alcohol marker; GG20-01, Jiraiya, January 2020. Digital […]

Out of Time and Place

Out of Time and Place   Suzanne Mooney |  スザンヌ・ムーニー 6 July – 7 September, 2020   Catalogue   Suzanne Mooney, 2020. Out of Time and Place, mixed media. . 「空き間は空間的な広がりを持つ。其処此処の間の地形を描いている。空き間は時間的な広がりを持つ。時に意識を向けている。私たちが今をとっては昔を、未来をとっては今をと、位置づけるように。歴史を綴ることは、現在における過去を配する行為で、それは未来への可能性を手向ける行為と相まうからだ。空き間は社会的な広がりを持つ。ダイアローグの場に互いに続く対話を明確に表現している。」 ジェーン・レンダール著『空き間』221ページより . .  スザンヌ・ムーニーは2004年以来、旅をしている。物理的、比喩的な意味での旅で。世界を渡り、彼女なりの「空き間」を探検しながら。自然景観や人と自然との関係を重んじたロマン主義の芸術家らに感化され、独り芸術的な遍歴の旅に出た彼女は、以来、時と空間の欠如した広大な景観と自身の相関関係を見つめてきた。15年に渡り、おおかた写真か映像で記録されてきた、そんな彼女の景観との交わりは、一つの物語として蓄積されるようになった。物語の舞台は所在地も時間軸も不明だが、空間との関係性に向き合ってじっくり考えることを私たちに促すともいえる。一体、私たちは場所とどのようにコミュニケーションするのだろうか? .  この度ザ・コンテナーの『時と空間を逸して』展では、10年以上前に撮影されたものから最近のも含む映像セレクションを展示する。どの映像においても、ムーニーのシルエットはさも繊細で巧妙な介在を経て景観の一部として表現されていて、また撮影場所も世界各地と様々だ。ほとんどの景観についてはその場所が特定できないが、カメラが些細なヒントをいくつか拾っている時もある。映像の焦点はいずれにせよ、空間としての景観と、その哲学的、私的、社会的な掛り合いに絞られているのだが。  ロマン主義と同様、またはドイツ人ロマン派画家のカスパー・ダーヴィット・フリードリヒの「雲海の上の旅人」(1818年)に寄せてなのか、カメラはしばしば、景観の広大さを最大限に捉えられるような角度の位置に置かれている。ムーニーいわくそれは「場所が景観に転成する」地点であり、また、その地点は「鑑賞者の観点の限界と景観の境界線」によって定義されるという。日常生活を脱する手段として空間を探検することや彷徨することの「崇高さ」など、彼女のロマン主義への思い入れは、彼女の直感的なアプローチや作品に色濃く表現されている。彼女のシルエットがロマン派時代の絵画で一般的な男性シルエットの様相をならっているのも、彼女がジェンダーについて新たな見地や政治的位置づけを模索することと、自身の考え方を表現することを可能にさせている。  どの作品もビジュアル的、コンセプト的にも「粛然」としているのを指摘することも重要だ。ジェンダー・ポリティクス、グローバル化、社会的認識といった概念はこの上なく巧緻にほのめかされ、ささやかな連想を誘うだけである。これこそムーニーの作品の真なる魅力だ。物思いにふけったディープな瞬間を彼女は選び抜き、私たちと共有してくれている。芸術家としての彼女のアイデンティティ、彼女と、彼女が探求する景観との個人的なつながりが垣間見えてくる。おとなしくて詩的な反面、壊滅的な出来事や激的な自然現象の前触れを示唆しているようでもある。ロマン主義絵画の多くの作品と同様、むら気で、感情の起伏とインパクトが高いだけに、崇高だ。  他の作品で問いかけたことへの回答も、これらの作品中に探しやすい。都市景観を探検した写真シリーズの「街中を歩いて」、池袋のサンシャイン・シティで撮られた東京の鳥瞰図、女性の身体を模索して写した古い写真など。15年間の営みを導いてきたきっかけに新たな見識を得る許可を彼女がくれているかのようだ。作品中、背面でゆっくりと静かに熟しているかのような存在だが、実際には彼女が芸術と自我について、核として理解していることを代表している。  究極の物語行為、「ストーリー・テリング」を捉える本シリーズは、鑑賞者自身が映像内のシルエットと化し、まるでアバターのように、どこか特定の視点から空間を静かに見つめることをじわじわと誘ってくる。ムーニーの他の作品の多くのように、彼女のテクノロジーへの深い関心が意識される。とりわけ、原映像と編集映像の交錯によって織りなされるサスペンスは、現実とバーチャルとの明確な区別がないことから、恐怖感も湧いてくる。「私の作品では、自然のリズミカルで循環的なパターンに、モーフィング技術、ビデオの折り重ね、シームレスなループ再生など新たなテクノロジーの特徴が並列している」と、ムーニーはいう。  本展『時と空間を逸して』では、ムーニーが長い年月をかけて制作した4本の映像(最も古いのは2004年作)と今回のために作った1本の映像(2020年作)を展示している。展示物は彼女が16年に渡り、芸術家と一個人して進化してきたことを物語っている。なお、初期のものも含め、ほとんどの映像は日本で展示されたことがない。ザ・コンテナーはそんな作品を横並びに鑑賞できる貴重な機会を設けられたのである。 A place between is spatial, it is a mapping of the topographies between here, […]

Suzanne Mooney: Out of Time and Place

  Out of Time and Place   Suzanne Mooney |  スザンヌ・ムーニー 2 March – 13 April, 2020 Opening night reception: 2 March, 19:30 – 21:30     Suzanne Mooney, 2020. Out of Time and Place, mixed media. . 「空き間は空間的な広がりを持つ。其処此処の間の地形を描いている。空き間は時間的な広がりを持つ。時に意識を向けている。私たちが今をとっては昔を、未来をとっては今をと、位置づけるように。歴史を綴ることは、現在における過去を配する行為で、それは未来への可能性を手向ける行為と相まうからだ。空き間は社会的な広がりを持つ。ダイアローグの場に互いに続く対話を明確に表現している。」 ジェーン・レンダール著『空き間』221ページより . .  スザンヌ・ムーニーは2004年以来、旅をしている。物理的、比喩的な意味での旅で。世界を渡り、彼女なりの「空き間」を探検しながら。自然景観や人と自然との関係を重んじたロマン主義の芸術家らに感化され、独り芸術的な遍歴の旅に出た彼女は、以来、時と空間の欠如した広大な景観と自身の相関関係を見つめてきた。15年に渡り、おおかた写真か映像で記録されてきた、そんな彼女の景観との交わりは、一つの物語として蓄積されるようになった。物語の舞台は所在地も時間軸も不明だが、空間との関係性に向き合ってじっくり考えることを私たちに促すともいえる。一体、私たちは場所とどのようにコミュニケーションするのだろうか? .  この度ザ・コンテナーの『時と空間を逸して』展では、10年以上前に撮影されたものから最近のも含む映像セレクションを展示する。どの映像においても、ムーニーのシルエットはさも繊細で巧妙な介在を経て景観の一部として表現されていて、また撮影場所も世界各地と様々だ。ほとんどの景観についてはその場所が特定できないが、カメラが些細なヒントをいくつか拾っている時もある。映像の焦点はいずれにせよ、空間としての景観と、その哲学的、私的、社会的な掛り合いに絞られているのだが。    ロマン主義と同様、またはドイツ人ロマン派画家のカスパー・ダーヴィット・フリードリヒの「雲海の上の旅人」(1818年)に寄せてなのか、カメラはしばしば、景観の広大さを最大限に捉えられるような角度の位置に置かれている。ムーニーいわくそれは「場所が景観に転成する」地点であり、また、その地点は「鑑賞者の観点の限界と景観の境界線」によって定義されるという。日常生活を脱する手段として空間を探検することや彷徨することの「崇高さ」など、彼女のロマン主義への思い入れは、彼女の直感的なアプローチや作品に色濃く表現されている。彼女のシルエットがロマン派時代の絵画で一般的な男性シルエットの様相をならっているのも、彼女がジェンダーについて新たな見地や政治的位置づけを模索することと、自身の考え方を表現することを可能にさせている。  どの作品もビジュアル的、コンセプト的にも「粛然」としているのを指摘することも重要だ。ジェンダー・ポリティクス、グローバル化、社会的認識といった概念はこの上なく巧緻にほのめかされ、ささやかな連想を誘うだけである。これこそムーニーの作品の真なる魅力だ。物思いにふけったディープな瞬間を彼女は選び抜き、私たちと共有してくれている。芸術家としての彼女のアイデンティティ、彼女と、彼女が探求する景観との個人的なつながりが垣間見えてくる。おとなしくて詩的な反面、壊滅的な出来事や激的な自然現象の前触れを示唆しているようでもある。ロマン主義絵画の多くの作品と同様、むら気で、感情の起伏とインパクトが高いだけに、崇高だ。  他の作品で問いかけたことへの回答も、これらの作品中に探しやすい。都市景観を探検した写真シリーズの「街中を歩いて」、池袋のサンシャイン・シティで撮られた東京の鳥瞰図、女性の身体を模索して写した古い写真など。15年間の営みを導いてきたきっかけに新たな見識を得る許可を彼女がくれているかのようだ。作品中、背面でゆっくりと静かに熟しているかのような存在だが、実際には彼女が芸術と自我について、核として理解していることを代表している。  究極の物語行為、「ストーリー・テリング」を捉える本シリーズは、鑑賞者自身が映像内のシルエットと化し、まるでアバターのように、どこか特定の視点から空間を静かに見つめることをじわじわと誘ってくる。ムーニーの他の作品の多くのように、彼女のテクノロジーへの深い関心が意識される。とりわけ、原映像と編集映像の交錯によって織りなされるサスペンスは、現実とバーチャルとの明確な区別がないことから、恐怖感も湧いてくる。「私の作品では、自然のリズミカルで循環的なパターンに、モーフィング技術、ビデオの折り重ね、シームレスなループ再生など新たなテクノロジーの特徴が並列している」と、ムーニーはいう。  本展『時と空間を逸して』では、ムーニーが長い年月をかけて制作した4本の映像(最も古いのは2004年作)と今回のために作った1本の映像(2020年作)を展示している。展示物は彼女が16年に渡り、芸術家と一個人して進化してきたことを物語っている。なお、初期のものも含め、ほとんどの映像は日本で展示されたことがない。ザ・コンテナーはそんな作品を横並びに鑑賞できる貴重な機会を設けられたのである。 A place between is spatial, it is […]

Billy Monk: Defiance and Decadence Under Apartheid

Defiance and Decadence Under Apartheid アパルトヘイト下の抵抗と堕落   Billy Monk  |  ビリー・モンク 21 October, 2019 – 6 January, 2020   Opening night reception and publication launch: 21 October, 19:30 – 21:30 Publication + Screening of the documentary A Shot in the Dark (2019) and QA with the director / custodian of the Billy Monk Collection, Craig Cameron-Mackintosh: […]

AIAARG: What If AI Composed for Mr. S?

What If AI Composed for Mr. S?  S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら   Artificial Intelligence Art and Aesthetics Research Group (AIAARG) 人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)    22 July – 7 October, 2019   Opening night reception with + publication launch: 22 July , 19:30 – 21:30 Publication   Copy of the instructions for Symphony No.1 “Hiroshima”, written by Mr. Samuragochi for Mr. […]

Mischa Leinkauf: Endogenous error terms

Endogenous error terms Mischa Leinkauf  | ミーシャ・ラインカウフ 15 April – 8 July, 2019   Opening night reception with + publication launch: 15 April , 19:30 – 21:30 Publication       ベルリンを拠点に活動するドイツ人アーティスト、ミーシャ·ラインカウフ(Mischa Leinkauf)は、過去15年間にわたり、景観や都市計画と人間の関係を、彼自身として、または幼馴染であり悪友のマティアス·ヴェルムカ(Matthias Wermke)と組むアートデュオ、ヴェルムカ/ラインカウフの一部として再定義し、社会政治的な問題や、彼にとって「個人的な自由の例」と解釈するものを探求してきた。ラインカウフの作品は、多くの領域にわたり、ビデオ/映画のインスタレーションや写真による記録の形をとりながら、個人や集団の記憶の中の歴史的、政治的、文化的な概念を引き合いに出しながら公共空間の境界や物理的耐久性の限界を追究するパフォーマンスに代表される。 国際的に高く評価されているラインカウフの作品の多くは、ゲリラ的なパフォーマンスを連想させる素早く完全に計画された妙技と非常に概念的な背景を融合させた作品を作る能力が根本にあるが、最終的に展示される作品の主旨は、自然発生的で直感的だ。作品はアクセス可能であり、すぐに親近感と共感を得られる。一見すると、パフォーマンス行為の多くは、向こう見ずなパルクールやアドレナリンを誘発するアクロバットを思い起こさせる。それにもかかわらず、歴史的·文化的背景から、ラインカウフは芸術作品として都市景観を詩的に再構成することができる。 この10年間においてラインカウフの最も有名な作品は、ヴェルムカとのアートデュオとして創作されたものである。特に2014年に、ドイツ生まれの米国人建築家ジョン·A·ローブリングの逝去145周年を記念して、ニューヨークの象徴的モニュメントであるブルックリン橋の塔の上に、二つの手作りの白いアメリカ国旗が標準旗からすり替えられる作品があり「White American Flags-白いアメリカ旗」 と題された。このような匿名の行為は、全世界のマスコミと国民の想像力をかき立て、国際的な波紋を広げた。 ラインカウフ個人での作品は、社会活動的でありながらも危険というよりは探求といった面に重点を置いている。落ち着きが増し、ヴェルムカとの共同作品から発展させたものとなっている。 このザ·コンテイナーでの展示のために作られたビデオインスタレーションの仕事は、7年以上前に始まり、ラインカウフはトーキョーワンダーサイト(現在はトーキョーアーツアンドスペースと改称されている)での半年間のレジデンスを終えると2011年の東日本大震災とそれに続く福島第一原子力発電所の事故が起きた。地震、津波、そして原子力の危機は彼に強烈な印象を残し、普段は見ることができない、あるいは探索されない保護された都市建築空間の調査を試みた。彼の研究は、街の地下にある道路やトンネルなど全体的な地下システムへと導いた。もともとは、川や潮の流れをコントロールするために地下を掘ることによって、過去数世紀の間に作られたものである。こういった秘密の場所のいくつかは、渋谷の交差点のような東京の最も象徴的な場所の下に隠されている。 彼にとって、予期せず、通常は無人で非居住の空間が発見されたことは、不確実な状況や緊急事態においても安全と安心を提供でき、保護され、守られた公共の場所の存在を意味した。自然災害や人的災害から真の意味で守られている唯一の都市空間を形成し、住民に最も基本的な人間のニーズである「安全」を提供している。彼は急速にこれらの空間に魅かれるようになった。都市の日常生活を観察したり、都市のDNAに組み込まれていることを経験したりすることは、賑やかな大都市の建設と発展に不可欠な内生的プロセスである。このように内から生じる感覚は、その都市のゲノムを定義する生物や細胞内から進化してきた活動であり、ラインカウフは都市の子宮の中で保護され、包み込まれているという心理的な感覚を生み出している。 東京を訪れてからその後7年間、彼はアテネ、ミュンヘン、ウィーン、フィレンツェなどのヨーロッパ中の都市を含む世界中の同様の地下システムを探検し、記録し、その活動はモンゴルにまで拡大した。 ザ·コンテイナーでは、新しいビデオインスタレーションとして、彼の長年の仕事、研究、そして広域な旅行による成果を、プロジェクトのきっかけとなった東京の街で披露することを嬉しく思います。 この作品は、コンテナ内に投影され、スペースの背面壁全体をカバーするシングルチャンネルのビデオ装置として表示されます。このインスタレーションは、展示スペースの映像に没頭できるような配置を利用して、真っ暗な状態から始まり、視聴者を混乱させ、空間の錯覚を作り出します。実際のトンネルの場合と同様に、ラインカウフは入口と出口の曖昧さを再現し、これらの空間が生み出す物理的、心理的な影響を模倣するようにコンテナを変形させようとする。 駐日ドイツ連邦共和国大使館の寛大な支援なしには、この展示は不可能であったであろうし、東京とベルリン市のパートナーシップの25周年を記念して東京で開催されるこの展示をサポートしてくれたことに感謝しています。 Over the past fifteen years, Mischa Leinkauf, the Berlin-based German […]

Natalie Clark: Into the Curve

Into the Curve Natalie Clark 10 September – 26 November 2018   Opening night reception with + publication launch + live performance: 1o September, 19:30 – 21:30 Performance art: Nogi Sumiko | のぎすみこ, 20:30 Champagne reception by GH Mumm   Publication     ナタリー・ジェーン・クラークは、正式な芸術家養成教育をバックグラウンドに持つ、イギリス系アメリカ人アーティスト・デザイナー・教育者である。現在の活躍範囲は、米国西部とスペイン・バルセロナのスタジオの二つに分かれている。活躍内容は、オリジナルの彫刻・アートコンサルティング・キュレーション・デザインを含む。イギリスのブライトン大学から彫刻専攻の美術学士を獲得した後、全額奨学金で渡米し、シカゴ美術館附属芸術大学から芸術学修士を獲得した。ウィスコンシン州コーラー・ファクトリーで、アーティスト・イン・レジデンスとして正式な教練を積み、テキサス州及びワイオミング州の大学で教授職に就いた。9/11を記念した応募作品は、デザインコンペにおいてファイナリストとして選択され、ニューヨークで展示された。作品は、米国・カナダ・ヨーロッパ各地で、公私問わず、様々なコレクションで展示されている。 __________________ フェミニズムアートは常に批判にさらされてきた。第一には、その認証の問題がある。果たして性差の事実を表現した芸術作品に普遍性はあるのであろうか、と問われるからだ。社会的にはエリート主義・インテリ主義・白人中心的であると一般社会から拒絶されてきた。他方、多くの女性芸術家は、60年代の社会運動やフェミニズム運動の波に乗って、女性の芸術家としての表現と同時に、彼女たちの作品が表すもう一つの事実、すなわち、女性の事実に対する何百年に及んだ被害を正すよう、公平な代償を毅然と求めてきた。 ただし、女性芸術家の一部では、一般社会を深く考慮する者もいる。中には政治的に傾斜している者も、していない者もいる。60年代と70年代では、自らの身体を芸術作品の中心的要素として活用した女性パフォーマンスアーティストの増加を見た。しかし、女性によるアートは、社会的には例えば、人種的マイノリティやLGBTの芸術家に比べて、勢いを持たなかった。マイノリティによる芸術作品を避けることは、女性を避けることよりも政治的に適切(ポリティカリー・コレクト)でなかったからである。 数年前、私がナタリー・クラークと出会った時、彼女は自分の彫刻を何点か紹介してくれた。私は、彼女の作品が持つ、シャープで容赦なく、かつデリケートなシンプル性と高い洗練性を帯びた、男根やマスキュリニティーが内含された、フェミニティーの強い存在感に印象づけられた。例えば、Crystalline Spires, Faceted Gems (邦題:クリスタルの尖塔と面取りされた宝石)では、面と色・フォームと表情・自然と文化の統合が表現されており、彼女のグローバルな流動性と長年の経験・旅・文化が彼女へ与えた影響が反映されている。彼女はやはり、強くて洗練された女性であり、彼女の作品も同様だ。しかし、私は最近一年半、彼女の態度と作品に変化を感じるようにもなった。シャープだった角は曲線に変わり、外向的な視点は内向的なものへと変わった。彼女の作品は、女性として、また、一個人としての変化を反映し、自己をまるでスピリチュアルに讃えるような、パーソナルなものに進化してきた。 キュレーター仲間と友人として、私は、クラークのそのような変化に魅了され、アーティストとしての自分の進化をコンテナーで展示しないか、と彼女へ持ちかけた。彼女は通常、屋外展示用の作品や彫刻を作っているため、面白いチョイスだと私も考えた。普段は広大な屋外空間から見いだしているインスピレーションや、新たに培った美的感覚を用い、コンテナーの半分というわずかなスペースの中で、どのように彼女が自分のクリエイティビティを包含するか気になった。「男性社会」だと評されている日本において、如何にビジュアルで社会的な影響を生むかは重大な問いであった。 さて、この展示について私たちが議論し始めたのは一年以上前のことである。アイディアやメモを交換したりする過程や、クラークが我々の対話を通じて得た個人的変化や気付きによって、展示物はしょっちゅう変化し続けた。しかし、最初から明らかだったことは二つあった。まず、展示作品が、女性らしさとフェミニティーを讃え、物理的かつ心理的に、人を引きつける必要性があり、また、身体的体験をもたらす必要性があった。 彼女が、見物者が中に入って女性の身体を探ることのできる、和紙で作られた巨大なヴァギナのスケッチを何点か送ってくれた時には、「ついにひらめいたのか」と私は思った。しかし、フェミニティーよりも生物学的な視点が重視されてしまうのではないか、女性運動とクラークの美しくかつ絶妙に知的な創造性を、無意識に損なってしまうのではないかと、懸念もあった。したがって、この作品を実現させる可能性として、ラテックスから膨張式物質など、様々な行程、資材、視角を議論し続けた。 その傍らでは、#MeToo運動が世界中の関心と注目を引きつけるようになり、私とクラークを二人揃ってより一層内省的にさせた。運動の重大性は増したが、日本でのリアクションは、ネットのニュースサイトに取り上げられるまで大手メディアの殆どが無視するなど、様々であった。世間の注目を集まり、加害者の懲戒へ繋がったケースもあったが、被害者の一部は、ソーシャルメディアで激しい攻撃を浴びたりもした。このようなこともあり、クラークの展示を、ここ日本で、このタイミングで実現させる必要性が益々固まった。 […]

In search of the juncture of three coincidental sites

In search of the juncture of three coincidental sites 金子未弥  |  Miya Kaneko   11 June – 26 August 2018 Opening night reception + publication launch: 11 June, 19:30 – 21:30       都市風景をナビゲーションすることは、A・Bといったニ地点間を単純移動することよりも、はるかに多くのことを思い浮かばせる。家から職場までの通勤路といった最もつまらない移動においても、記憶や連想を「まとった」私たちの主観的な解釈は、特定の場所や空間に対する私たちの観点を「飾っている」。新進気鋭の日本人アーティスト金子未弥は、その点を非常に深く理解していると言えよう。アーティストと専門家の両者として彼女は、一都市全体や特定の場所が彼女や他人にとって如何なる意味を持ち得てきたのかと何年も探求してきた。  彼女はここ数年にわたって人や空間の表現方法を画や彫刻など様々な手法を用いて研究している。彼女の取り組みは特定の空間へフォーカスしたことをきっかけに芽生え、「都市とは何からできているのか」という問いへ対する個人的な探求へと変化してきた。特に彼女の制作工程は、個々人が特定の空間を如何に捉えているのかを理解することに重点を置いている。特定の空間へ対して個々人は一体どのように関わっているのだろうか?例えば、彼女の東京は他人の東京と同じものであろうか?当然のことながらこれらの問いへ対する答えとして、都市は人生上の他の問いと同様で、個々人の記憶やアソシエーションに覆われているということである。人はそれぞれ同じ道や空間を取っても、捉え方や考え方が全く異なることがあり、それは個人的なコノテーションや人生経験が道や空間への捉え方や考え方を影響する傾向にあるからである。 このような一空間へ対する個々人の理解の差異は、金子の芸術的実践を刺激するのである。彼女は空間を体験・歴史・アソシエーションの集合体である、記憶のアーカイブとして捉えている。彼女の制作は主に都市的なイメージのある金属を用いているが、それは金属が日常生活において幅広く使用され、多能性や液体化する性質を持っているからである。つまり金子によれば、金属は都市の特質と強く結びついているのである。 コンテナーでの金子の展覧会『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、三つの作品を通じて彼女の制作の多様性を披露し、彼女と都市と地図との間の関係性の進展を強調している。最も初期の作品は2013年に作成された「東京」であるが、鉄棒から作られた、東京の巨大な立体地図である。戦後直後と現代の東京の地図などをもとに制作されており、東京の複雑な変化や進化が作品のヒントとなっている。 複雑で多層的なこの彫像は、都市の「血脈」や道路を巨大な蜘蛛の巣のように織り出しており、歴史と記憶の重みが、時間とともに物質的・心理的変化を促進させていることを表現している。彫像は分厚い鉄棒から作られているが、もろさと希薄さも同時に表現されており、作品は大都市の工業的な本質とは対照的な、歴史や記憶の儚い関係性のアレゴリーとしても成立している。 また、『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、金子の作品のうちコミュニティから発想を得た二点を展示している。一点目は本展用に制作された大地図「スケールから地図を解放せよ」であり、二点目は様々な都市の名前が彫られたアルミ製の皿のセレクションである(東京ミッドタウンにてグループ・ショーで展示済)。これらの作品は、都市のポートレートや個人のポートレートを造ろうと、多くの人々(ギャラリー来客者、ワークショップ、メール)からのインプットに依ったものである。 「都市を解剖し忘却を得よ」は都市名が彫られた数々のアルミ製の皿であるが、これらは自分にとって重要な都市や空間の地図・説明・関係性を一般人から募ったものである。集められた地図は様々な形をとっている。本物のものや写真のものもあれば、メモや個人の記憶に頼ったものもある。これらは集められた情報によってできた金子自身の理解やアソシエーションからビジュアルな表現として統合、体現されている。                        金子の最も新しいプロジェクトである「透明な地図」は、人々の経験と記憶の交わりを更に一歩進めている。想像上であれ、リアルであれ、アソシエーションのリンクや重複は一般人から募った情報を通じて造られ、多様な図形の画は、実体的なコネクションや形を織られることによって完成したのである。透明な「コミュニティ」(金子は「都市」と呼んでいる)は常に変化しており、物理的には実在しないかもしれないが、共有された記憶や経験の超越したことから存在している。都市と都市のマッピング、マッピングによって完成した画は、一般の人々との交流ワークショップで造られているが、おおよそ他人同士の人間によって情報が同時に共有されて造られる「空間」は、常時変化・進化し続けるアソシエーションのリンクや何層もの複雑性が、無限のスケールや形状とともに造られていることからできたものである。 金子未弥の都市と都市のマッピングへ対する熱意は、個人的・歴史的・文化的記憶を統合させているが、これは集合的な記憶を具体化するためであり、また、空間とは、使用に慣れて頼りすぎるようになった、ナビゲーション・システムやスクリーン上のデジタルな地図の一地点よりも大きな意味を持っていることを示すためである。実に空間は、それぞれ多くの人々の経験やアソシエーションから形作られた記憶を持している。   金子未弥:2011年、多摩美術大学を卒業、工芸学学士号を取得。2013年、同大学院より修士号を取得。2017年、同大学院より博士号を取得。同年、多摩美術大学博士課程卒業制作展に出展。2016年、釜山Art […]

Even a man who is pure in heart

Even a man who is pure in heart Jack McLean   12 March – 27 May 2018   Opening night reception: 12 March, 19:30 – 21:30 Reception includes a live performance by Jack McLean as Dr. Donald Death with Dominic Skelton     トリカブトの花が咲き 秋の月が輝くとき どんなに善良な心を持つ男も狼男になる。  . ユニバーサルスタジオ『狼男』(1941)より . . どんなに善良な心を持つ男でも、ジャック・マクレーンの描く絵にはむしばまれそうになるかもしれません。病的で流動的な世界に引き寄せられ、そこではハイヒールを履く男が猫に変身し、目が飛び出た少年は痩せた足の髭男に変態します。マクレーンの一連の新作では、サイケデリックなドラッグ体験を思わせるような、ひどく奇妙で無意味でありながらも意味をなす、ドライなユーモアとウィットに富んだ社会論評を特徴とする彼のシュールな世界にゆっくりと入り込むことになるでしょう。 . マクレーンの非常に比喩的で叙事詩的な大規模な風景画とは異なり、これらの紙やキャンバス上の小さな絵は、多くの人物や物が認識できるのにもかかわらず、抽象的なものです。ビオモーフィズム、生物を連想させる形態や幻想的なイメージは、ジョアン・ミロやジャン・アルプのようなシュールレアリスム後期の抽象的な作品を思い出させます。これらの絵画は記憶や主観的な知覚によって引き起こされた幻覚の状態を表しているようであり、マクレーンはそれらを支配する無敗の主権者です。源が何であれ、彼の構想は空間と間隔の優れたデザインのセンスによって組み立てられています。マクレーンは、オートマティズム(自動記述)や意識の流れのような抽象的なシュールレアリスムのテクニックを借りて、ルールがないファンタジーの環境を作り出しています。 . 今回の作品は任意の方向から見ることが可能である複雑な組み立てであり、液体のような流動性を持ちます。悪夢のような絵の隣には、奇妙で愚かな人物がいたり、お互いが影響し合って、紙やキャンバスの境界を超え、無限に見える小さな世界を形成します。これらの絵は大胆で、子供が描く絵のような印象を与え、強いヴィジュアル的プレイやだまし絵も潜んでいます。ネガティブスペイス(対象物の周りにある空間)が、ポジティブスペース(メインの空間)になり、一見すべての隅が異なる方向から見た場合、別のキャラクターのディテールになります。すべてのドローイングはモノクロで、ほとんどが白黒ですが、いくつかは大胆で子供が使うような色で不条理を増しています。 […]

Surrogate Structures

Surrogate Structures Sam Stocker 6 November 2017 – 22 January 2018   Opening night reception + launch of publication: 6 November, 19:30 – 21:30 Reception includes live performances by Sam Stocker, Aquiles Hadjis,                                             […]

Tobias Klein: Augmented Mask

Augmented Mask Tobias Klein   10 July – 23 September, 2017 Opening night reception + launch of publication: 10 July, 19:30 – 21:30   Publication (catalogue)     「アートとは、新しい宇宙の空間と時間を構成するコミュニケーション・コンピューター・視覚空間・現実空間・自然・人工生命の融合から出現するサイバースペースである。この新しいネットワーク環境は我々の知覚を増大させ、人類の文化と意識へと新たな形而上の寸法を与える。これに従い、知識の新規様式とそれの分配は試され拡張されている。」 − ロイ・アスコット著「From Appearance to Apparition: Communication & Culture in Cyberspace(出現から幻影:サイバースペースにおけるコミュニケーションと文化)」、1993年   この惑星での人類の誕生から、アートと科学は絶え間なく生命と自然における真実・価値・美しさを探求しながら持続的に絡み合っています。人類の文化と形式を継続的に再定義する為に、これら二分野の関係は、自然と人工・秩序と無作為・現実と虚構の境界での緊張の区別へと、哲学への関心を共有しています。 20世紀に入り、アーティストはテクノロジー(技術)を模索し始めたが、第二次世界大戦の後には更に大きな移行が起こり、そして再び70年代にはテクノロジーを基盤としたアートの美に注目する多くの評論的で哲学的な論文や随筆と、観覧者と作品の相互対話が盛んな中で再び発生しました。その多くはしかし、哲学的な明晰さにもかかわらず、常に動き続ける技術が偏在する生活の中で、何故か現在は無関係です。 私達はテクノロジーとの対話法と、それがどの様に社会構成に影響を与えるかを更に多く知っています。しかし、これは世界で指数的に変化しており、一つだけ普遍な物は人生、文化、コミュニケーションの意味を再調査し再定義する事への、我々の芸術的で科学的な努力です。変化する世界での真実と形状への絶え間なく続くこの捜索と、それとの対話へのアーティストの冒険は、アートの本質を描写しています。 Tobias Klein(トビアス・クライン)とは2年前に出会い、テクノロジーを文化的・概念的・美的に模索するアーティストとしての作品と心掛けへと即座に興味を持ちました。しかし、クラインの作品への興味は、観覧者を引き込む為への増強するバーチャルリアリティ使用の試みを二人で討論してから増幅しました。クラインの作品での技術方面への私の理解の欠如とは裏腹に、芸術的で相互会話的な作品と現代アートを更に包括的で理解し易くする試みへのキューレーターとしての興味は、非常にクライン当人と同様です。 我々がThe Container(コンテナ)にてプロジェクトへのアイディアを出し始めた時に、クラインの中国戯曲への関心に興味をそそられました。戯曲とは、動作、歌唱、クラシック曲、視覚構成、デザイン、演劇、語り物の他には見られない合併物であり、観覧者を肉体的、精神的、理知的に感覚上の経験へと浸らせる、人類が発明した最も網羅的で学際的なアートの表現です。その他多数のアートの形式と同様に、戯曲は数百年以前から存在しており、その豊かな歴史は非常に大きな文化的、社会的、政治的、美的な重要性を運んでいます。 The Container(コンテナ)でのクレインのインスタレーションAugmented Mask(増大するマスク)の語り口は有名な広東戯曲のThe Flower Princess(花の公主)を反響しており、これは高く評価される劇作家の唐滌生 (1917-1959) による著名な作品であり、唐の劇作家の経歴で最も活発だった時期に初演され(1957)、香港では現在でも一番の人気作品となっています。崇禎帝(スウテイテイ)の娘であり、周世顯に忠実を誓う公主の長平の悲劇的な人生が大本である恋物語となっており、劇の最後には悲壮な恋人2人の自殺と明王朝の崩壊を年代記としています。多くの評論家は戯曲と香港の文化と政情不安定の物語間の比較を描き出しているが、クラインは観覧者へと作品を見る中で活発的な役割を与える事に関心を持っており、女性と男性の機構実体の間でのサイバーネティック対話が行われたロンドンのICAでの1968年の展覧会Cybernetic Serendipity(サイバーネティック発掘)へと構成された英国のサイバネティスト作家Gordon […]

A Blot on the Landscape

A Blot on the Landscape   片岡純也 / 岩竹 理恵 Junya Kataoka / Rie Iwatake 29 May – 3 July, 2017   Opening night reception + launch of publication: 29 May, 19:30 – 21:30 Publication (catalogue)     若き日本人アーティストデュオの岩竹理恵と片岡純也が作り出す世界は曖昧さに 満ちています。それらはシンプルなかたちだが独特な視点で注意深く入念に作り込まれて います。彼らのインスタレーション作品に触れたとたん、彼らの独特な解釈や連想にあふ れた新しい世界へと誘われます。ふたりの素晴らしい才能は日常的な物を再解釈しそれら を理解するための新しい方法を作ることです。 岩竹と片岡によるシンプルな技術と装置の魅力はメディア・アーティストとして 世界的に評価されましたが、彼らは最先端のテクノロジーを使うことには興味がありませ ん。彼らの取り組み方は謙虚で抒情的であり、電球・紙・地図・ポストカード・セロテー プ等の身の回りにありふれた物の再考察をし、それらに新しい文脈をもたせます。彼らの インスタレーション作品は回り続けている物が多いが、それらは機械的な作品にもかかわ らず有機的なかたちを留めようとしています。平面作品やミクストメディアの作品では他 に比べることのできない彼らの独特な雰囲気を漂わせています。岩竹と片岡はアーティス トというよりも視覚的詩人といえるでしょう。 ふたりのインスタレーション作品を見ていると、入念に組み合わされた装置とイ メージの関係に驚きます。丁寧に作られたイメージの細部には、伝統的な日本美術に特有 の緻密で繊細で潔いシンプルさが見られます。優雅で細やかな感受性に響く作品は三次元 の視覚的な詩を作り出しています。彼らは日常的な物を注意深く観察しそれぞれの特徴や […]

How I paint some of my paintings

作品を描く方法  |  How I paint some of my paintings 中村 穣二  |  Joji Nakamura   27 February – 8 May, 2017 Opening night reception + launch of publication: 27 February, 19:30 – 21:30 Publication (catalogue)     中村穣二は一人のアーティストです。「アートの場」を作らず、美術学校に通った事もなく、そして正直に言えば、美術史や背景への興味も持っていません。しかしそれでも中村はアーティストです。実際に中村は東京の最も理解されていないアーティストの中の一人に違いなく、上手く流行りと停滞を行き来する中で、現在に見られる最も素晴らしい日本人による抽象画を多数制作しています。そして、中村の団欒には年代で最も有名なアーティストが含まれる中でも、中村は用心深くアート・コミュニティーのメンバーではなく、只の友達としての立場を決めています。楽しみの為へと居るのです。 中村は自身をアーティストだと言うでしょう。その中の一人となる事を決めたのです。アートへの興味は、日本を離れカリフォルニア州のサンタバーバラに居住していた間に築いたアーティスト達との友人関係によって引き起こされました。彼らの作品や生活様式に影響を受けました。更に音楽への興味と、不良達との交流を含めたその他自由時間の追求と共に、それは中村の人生と信条へと完璧に適応していました。「アーティストとしての確立」を考えた事はなく、只一人と成りたかったのです。肩書きに付く政治やからくりを抜きに、唯一作品制作の為に。過程に携わる事です。 目にしてきたアート作品や出会った友達に影響され、日本への帰還と共に自分自身の作品を作り始めました。その作品は自発的であり、ペンや鉛筆とアクリル絵具による本能的なマークと、通常キャンバスや紙の表面との感情的な交流で特徴付けられています。その介在は素早くて偶発的、そして流動的です。絵具を使用する際には、筆を使わずに手だけを使用します。結果のイメージは激しく大胆であり、線には体積があり、意思表示の形状は密度があります。大半の作品は単色で、よく黒と白だけを時々青や赤等の追加色と利用しています。 中村の絵画を初めて目にした時、それらの作品は直ぐにジャクソン・ポロックの自発的な絵画方法や、ジャーン・ポール・リオペルの質感と、そしてロバート・マザウェルの構成等の、50年から60年代の抽象的表現主義を思い起こさせました。しかし、中村の作品により親しむごとに、その作品はダダ主義の反体制自動的抽象の表現に根付いている事に気付きました。資本階級への作品制作ではなく、制度と秩序の拒否。この認識が特に過程においての中村の作品を更に面白くさせました。どの位の期間で制作し、どの程度の時間がかかり、それを何処で作り、どの様にして変更するのでしょうか? The Container(コンテナ)の展覧会へと中村穣二を招待した後に、この展覧会では中村の制作過程への洞察を紹介するべき事が明確になりました。中村の「美術界」への参加に対する不本意な感情と自発的な技術は、何故中村はアーティストであり、そして新しい観念を確立させる新しい手段での観覧者への作品提供を理解する助けとなります。 The Containerでの展覧会How I paint some of my paintings(作品を描く方法)の合てる焦点は、中村の衝動的で直感的な作品制作の過程です。スペースの内部の壁は紙で覆われ、約177cmの高さと1,150cmの長さの引き続く表面を作り上げており、アーティストはその上へと、精神的な儀式にもよく似たプライベートなパフォーマンス形式で、1日を制作に費やしました。このパフォーマンスはビデオに収録され、中村の絵画と作品制作との個人的で親密な関係への洞察の提供、そしてアーティストとしての作品との感情的で物質的な関係を記録しています。 この展覧会で展示されている様々なサイズの用紙上へのアクリル画は、コンテナ内部でのアクション・パフォーマンス中に中村が主に制作した巨大な表面から選択された部分です。皮肉にも、中村にとってこの制作行為は計画的ではなく、変更は別の問題でした。中村はどう作品を切り取るかを丹念に熟慮し想定しました。決断を下す前に、構成とサイズを長く慎重に、異なる視点から視野を置いて思考しました。当作品の残りは処分され、スペースの床に投げ出されています。既に中村にとってこれらの必要性はないのです。 エンディングノートとして、東京のClear Editionギャラリーに対し、特に佐藤拓氏による本展覧会の準備への協力と援助へと感謝の言葉を述べたいと思います。   […]

A Place to Bury Everything I Did

A Place to Bury Everything I Did Alexandre Maubert 7 November, 2016 – 23 January, 2017   Opening night reception: 7 November, 19:30 – 21:30 Live dance performance by Kyoko Nomura Photographing   Opening night reception: 5 December, 19:30 – 21:30 Displaying works Launch of publication   © Alexandre Maubert, 2016. Rehearsing with Kyoko Nomura. […]

nibble, nibble, gnaw

Kindly supported by:         nibble, nibble, gnaw Nadja Solari   18 July – 3 October, 2016   Opening night reception: 18 July, 19:30 – 21:30  Catalogue / Artist book   © Nadja Solari, nibble, nibble, gnaw, 2016. Concept drawing. . 「マリネッティは自らとフランセスコ・カンジュッロ、パオロ・ブッツィ、コッラード・ゴヴォーニから私に言葉の自由(Parole in Liberta)を贈った。これらはページ上のアルファベット文字に過ぎないが、このような詩は地図のように巻き閉じる事が出来る。この統語論はばらばらになっている。文字は散らばされ大雑把に再構成される。言語はもう存在しないと、文語的な占星家と主導者らは宣言する。これは再び発明される事が必要だ。創作においての深層部の崩壊権利である。」—1916年7月9日 フーゴ・バルDei Flucht aus der Zeit [Flight out of Time: […]

nibble, nibble, gnaw window

オープニング初日にはダダと本展覧会に関連する様々なパフォーマンスが披露されます。 ナディア・ソラリ演出の依頼によるパフォーマンス:日本のヨーデル放歌会がスパム文章を歌います。 クラシック音楽パフォーマンス/共同パフォーマンス・アート: クラシック音楽作曲家のMKチャールズによる、依頼によってこのイベントへと特別に作曲したダダ概念を込めた新作のピアノ曲演奏。このミュージック・パフォーマンスはスコットランド作家のジャック・マクリーンによるパフォーマンス・アートとしての演技が同時に披露されます。 南アフリカの著名バグパイプ演奏家であるドミニク・スケルトンによるThe Containerへの特別パフォーマンス。 1997年に筑波大学の河口教授により制作された、学生達に焦点を合てるマヴォ・プレイのビデオ録画の放映。 初日にはThe Containerから、ナディア・ソラリによる本展覧会nibble, nibble, gnawをご紹介する二ヶ国語(英/日)の新しいカタログ/作品集が公開されます。更に本出版物は、本展覧会から発想を受けたアメリカのライターであるショーン・メレンスの、依頼による新作フィクション小説/おとぎ話が含まれます。本出版物はThe Containerにて、そしてアメリカ・カナダ・ヨーロッパのAmazonから購入する事が出来ます。 Opening night will include a range of performances relating to Dada and to the exhibition: A commissioned performance, directed by Nadja Solari: Japan’s Houkakai Yodel Club singers singing spam text A commissioned classical music performance / performance art collaboration: Classical music composer MK Charles in […]

Game Boy Tetris

Game Boy Tetris Rutherford Chang   22 February – 9 May, 2016 Exhibition catalogue   Opening night reception: 22 February, 19:30 – 21:30   © Rutherford Chang, Game Boy Tetris, 2016. Video stills. . ニューヨークを拠点とするアーティストであるラザフォード・チャンの作品に触れると、よく憤慨を引き起こします。それは気がふれる程の徹底した反復性、再構成性、そして分類性からの物でしょう。しかしこっそりと想像力を掻き立てるので、その単調性と無益さはチャンの熱中性から固執を形成させます。もしかすると狂気の狭間なのか、チャンの根気と忍耐への熱意によって細部に及ぶ陶酔の単調さと無益さの共有へと招待されて、徐々にいくつもの層で重なった文脈を明らかにし、そして最終的に全体を作品として創り上げます。「蓄積とはすでに固有である特質を強調させる手段」と、チャンが自身の作品についてインタビューで語りました。チャンの作品テーマは文化とその産物へと密接に結びついており、例えばメディア、商業発展や資本主義、そして政治とアーティスト自身のアジア系アメリカ人という二つの文化間を乗り越えてきた個人的な経験から来ています。チャンの作品全てに及び、文化的産物の再構成が多く見られます。しかしその変形はとても微かで、細部でのみ分かる物です。全ての文面がアルファベット順に再配列された、ニューヨーク・タイムズ紙の表紙のコラージュであるアルファベット順新聞紙(Alphabetized Newspaper、2004年)は私達が日々無意識に消費する恐ろしい言語量を強調しています。北京の街頭で入手したメガホン収集品から成る音の彫刻であるブーム・プロパガンダ(Boom Propaganda、2008年)は、中国商業界での現在の状況を誇張しており、競争する広告の不協和音として表れています。 ラザフォード・チャンのザ・コンテナ(The Container)にての新しいインスタレーション 「ゲームボーイ・テトリス(Game Boy Tetris)」は、チャンのテトリス界の王座へと昇る記録である1,764本のビデオが陳列されており、反復行為へのアーティストの熱狂的な傾向と没頭性を提示しています。まだ世界的な首位ではありませんが、現在はツイン・ギャラクシーズ(Twin Galaxies)から世界第2位へと評価されており、公式な記録保持者となっています。チャンの視野は首位へ定められていると言っても過言ではなく、暫く諦めないでしょう。 この没頭は1991年に、アップル社の共同創立者スティーヴ・ウォズニアックに気が付いてから始まったと伺えます。数年経った後もウォズニアックのスコア(2013年に4位と評価された)に着目し続け、チャンはウォズニアックを超えるという目標を確信しました。ニューヨーク市チャイナ・タウンのアパートで、自分のスコア証明の為にゲームをプレイする自分のビデオ録画を始め、相当な本数を収集しました。このビデオがThe Containerにて低位から高位スコアの順番にて展示されています。 チャンのニンテンドウパワーマガジンへ宛てた手紙に、自身の没頭についてこう説明しています。「ゲームボーイ・テトリスは完全にシンプルだが、それ自体に熟練性へと没頭させる無限の宇宙感があり、その他の『ゲーム』に目移りさせない。」この手紙は当雑誌が廃刊してから3年後に書かれた物で、1991年にスティーブ・ウォズニアックがゲームボーイ・テトリス王者へと君臨した当時に、ニンテンドウパワーへ宛てた手紙の形式を真似ている。 チャンは自身の全ての挑戦を継続してストリーミング・プラットフォームのtwitch上でライヴ・ストリームとして流し、そして全ての録画ビデオの記録をgameboytetris.comにて保ち続けています。2016年1月には、この企画はニューヨーク市のリゾーム(Rhizome)とニューミュージアム(New Museum)の共同提供でのオンライン展覧会の主題になりましたが、The Containerはこの企画を仮想上では無い実際のスペースで初の展示を行い、そして更に観覧者がテトリスのプレイを出来る様にしており、チャンの高スコアへの挑戦になるかもしれません。 勿論この展覧会はとてもオタク的であり、普段ギャラリーに足を運ばない新しい観覧者も視野に入れています。しかしラザフォード・チャンの過去の作品にて、労働と雇用の相似性と、上へと昇る為には、粘り強く絶え間のない、時には無意味な努力から逃れる事は不可能だとしており、それを無効化・反復・「時間の無駄」だと没頭的な作風から感じる人々も居るでしょう。その根元は資本主義なのです。 この出版は展覧会と同じ内容で、チャンの現在までの全てのビデオ録画からの画面画像を掲載しており、1位になる目標を獲得する為のゲーム上での道のりに対するアーティストの没頭を明らかにしています。スコアは低い物から高い物へと順番に配列し、アーティストの疲れ知らずな追求ビデオと一致する並びになっています。前述した2015年11月にニンテンドウパワーに宛てたチャンの手紙も記載しています。 ラザフォード・チャンの作品を知ったのは、2008年にロンドンのホキシントン・スクウェアに位置するブラウン・ギャラリーにてビデオ作品のデッド・エアー(Dead Air、2003年)を見てからです。そのビデオは画面上に2003年のジョージ・ブッシュによるテレビ放送版の一般教書演説での途切れる間、息を呑む瞬間、そして喝采が映し出されていました。この1時間に及ぶ演説を30分に要約したビデオ・インスタレーションは、演説の途切れる間のみを捉えていました。ユーモアのある編集でありながら、編集で文脈の消去が出来る事を注意深く提示していました。それ以上に、観覧者がボディーランゲージと声音から口語されない詳細を読み取り、真実を発見する事にどう敏感になるのかも示していました。 チャンはメディアとそれが文化の通貨として一般に与える影響について長期に渡る興味を持っています。いつも繊細さ、優雅さ、そして根気強くも非妥協的な言葉とイメージの編集と綿密な観察への試みと共に、印刷、テレビジョン、そして映画への情熱が過去10年間の作品に継続して現れています。言葉とイメージ両方の再文脈化が、再形成されたイメージと一般的なニュース内容に新しい視点を与えます。言葉とイメージはチャンの作品へと強力な観念的土台を与えるだけではなく、視覚への敏感さを示す明確な美的根拠となります。色調による肖像(Portraits by Tone、2004年)の様に素晴らしい抽象イメージを新聞写真の色調からのグラデ ーションで並べ替えたり、エピック(The […]

Brave Men of the Asura

Brave Men of the Asura Yuta Hoshi   16 November, 2015 – 31 January, 2016 Opening night reception: 16 November, 19:30 – 21:30   .  © Yuta Hoshi, Untitled, 2015. Inkjet print, size variable. . 2010年の冬、東京の中目黒にあるBrossヘアサロンの中に設置されている、建造された空きコンテナについて興奮して語る友達から電話がきた。「凄く気に入ると思うよ。」と言う。勿論、次の週にその気に入るはずである謎のコンテナを見に行き、そしてBrossヘアサロンのオーナーホシユウタ氏に出会った。私はコンテナに惚れ込み、ヘアサロン内の彼の建てたコンテナと同様に、面白くて興味深いホシ氏の気楽で想像的な人格に魅かれた。その後は勿論、歴史となる − 少々の説得の後にホシ氏は、サロンへのインテリアデザインの一部として彼自身でデザインし建てた空きコンテナにて、私にギャラリーを開設させてくれると承諾した。その偶然の出会いがThe Containerと2011年3月の初回展覧会の誕生を記した。 約5年後に、ホシユウタ氏とのコラボレーションは、それぞれ興味のある事柄やコンテンポラリーアートを好む共通した理解と友人関係へと発展した。時間と共に私はホシ氏が素晴らしいヘアスタイリストだけではなく、彼自身の上でアーティストである事が分かっていった。髪を切らない時、彼はサロンの裏で人像を彫刻し、絵画や、服飾デザインや、写真や、新しいインテリアデザインのアイディアを構想する。実際に、サロンその物のデザインから、周りに散りばめて置かれている工芸品、そして空間を飾るポスターまでの、サロン内で目に入る全ての物は彼の手による結晶だ。 ホシ氏はアーティストとしての教育を受けてはいないが、アート制作無くしてはアートが彼の人生その物である為に人生が成り立たないという、真のアーティストとしての本質の精神を包括する。私はキューレーターとして、いつも「アウトサイダー」アートというアカデミアや美術史、そして流行りに縛られない純粋な形のアートに興味がある。抑え込む評論家や理論家を中心とするアーティスト活動とは正反対な、「アート制作」の為に創られるアート。ホシ氏と私は数年前からThe Containerで彼自身の作品を展示する機会について話し合っており、彼のインスタレーションを我々のスペースで展示する事を嬉しく思っている。 Brave Men of the Asura(阿修羅の勇敢な男達)はThe Containerを伝統的な日本の寺に塗り替えるというミクストメディアインスタレーションである。このインスタレーションの焦点は、ヒンドゥー教神話の神の阿修羅から発想を得た木像彫刻「デミゴッド(半神)」。人像は6本の腕を持ち、ホシ氏が数年前に彼自身の体を彩る為に彫ったという、伝統的な日本刺青で飾られている。それゆえ、ホシ氏とこの彫刻は、ホシ氏を神格像と見せる反転的な試みによるセルフポートレート制作の為に、同じ模様で印されている。この寺自体は、強い日本伝統的な宗教図像学の原物と現存物そして新しく創られたオブジェクトによって謎に包まれつつも、宗教や宗教的団体に属さない寺 — 個人的な祈りや瞑想への精神的な場所と環境を作ろうとしている。 黒と白の抽象的なデザイン、稲妻又は混沌の追憶を意味する、彫刻背後に投映されたビデオプロジェクションは人生の始まりを現しており、神の感覚を深めて精神的経験を昂める。 当展覧会のタイミングは祭日時期や光と冬の祝いと合わせて企画された。そして当展覧会は日本暦で最も大切な、家族と過ごし祈りや内省をする行事の新年に重なるまで開催される。ホシ氏とインスタレーション制作を疲労無く手伝う熱心なサロンスタッフである「助手軍」は、自己反省の空間であるが全体的に人間性の本質の熟考への場を創り出した。 展覧会へのタイトルBrave Men of […]

A few light taps upon the pane, no one turns, no reply

A few light taps upon the pane, no one turns, no reply Suzanne Mooney   27 July – 11 October, 2015 Opening night reception: 27 July, 19:30 – 21:30         .   . アーティストが風景画に興味を持つようになったのは比較的新しい動きと言える。紀元前1500年頃までは風景画の作品は極僅かであった。それが17世紀、オランダ黄金時代の絵画の時代にジワジワと増え続け、ロマン派時代に瞬く間にブームとなる。カメラが発明されてから全てが変わったのは言うまでもないが、ボタン一つで見たものをそのまま再現できる技術にアーティストらは戸惑い、結果、風景画が主となる印象派時代に突入することになる。アーティストらは戸外制作を行い、光の質や色の特徴を今までにないやり方で試みた。 アートとしての写真の世界でも、風景にあらゆる面で執着した。構成や形に重点が置かれ、人間が排除された。私が最初スザンヌ・ムーニーの作品に惹かれたのは、人物が写ることでその風景のバランスが崩れてしまう写真が多い中、彼女の写真には一切そういったことがないからではないかと思う。彼女の写真はレンズを風景に真っすぐ向け、まるで間違えたかのように人物が写っている。その人物は、端に小さく写っている場合もあれば、中央の場合もあるが、写された人物は写真の焦点となることがない。間違っても人物写真とは呼べない、例え写真家自身のシルエットが写真の大半を占めていても。(「Come Away, O’…」, (2012-2013) — 風景が必ず作品のスターなのである。 東京でアイルランド出身のムーニーに始めて出会ったのは、数年前に遡る。彼女がまだ多摩美(東京、多摩美術大学)の博士課程で東京の鳥瞰図を撮っていた頃だ。大都市の景観や現実という概念の思想についてカジュアルな話しをしていく間に、作品を見ずとも彼女の写真に大きく興味を持ったことを覚えている。 彼女の作品を実際に見た時、私は期待を大幅に上回る衝撃を受けた。ユニークな感覚による見事な精密さ、息をのむ程の構成力、そして一つの写真の領域を遥かに超える多重に重ねられた表現力がそこにはあった。彼女が持つディテールへの愛と細部まで追求するパーフェクションを経て、完璧な作品が生み出されていた。情報社会の今日、スマートフォンで高画質の写真を日々撮れるようになった我々も、ムーニーの作品から学べる事が一つや二つあるのではないだろうか。 東京の景観は時にその壮大さに圧倒されてしまうが、ムーニーが写し出す東京はそれを覆すものだ。密接した建物や高層ビルが立ち並ぶ中、世界中どこにでもある、人の普通の生活が描写されている。写真の激しい美しさが人の目を引きつけるが、ひっそりと佇む人物の存在によってどれも哀愁漂う詩的な作品として完成されている。 また、ムーニーの作品に魅了されたのが私だけでないことをとても嬉しく思う。博士課程を終了してからというもの、彼女は多くの名声を浴び続けている。つい先日、イギリスで開催されたAesthetica Art Prize 2015を受賞したばかりだが、2015-2016年度の小金町アーティストインレジデンスにも選ばれている。 1年以上前にもムーニーの作品をThe Containerの展示会に置かせてもらった。彼女の東京の捕らえ方と彼女が当時試していたアクリル判への印画に大変魅力を感じたからだ。今回はそれらの作品の透明感と、彼女の少し前の作品集でLEDのライトボックスを使ったものにとても興味を持った。池袋サンシャインシティからの東京の景観を360度写した作品もその一部だ。(「Tokyo Summit A」 (2012)) […]

In dwam

In dwam Risa Tsunegi 13 April – 29 June 2015   Opening night reception: 13 April, 19:30 – 21:30 Wall Dance, Risa Tsunegi, 2015. Mixed media, approx 170 x 120 x 17 cm. . 常木理早の作品は、60年代と70年代のアメリカのミニマリスト運動から大きく影響されています。 それに加え、ポスト抽象表現主義のエスセティックの影響も窺うことができます。 数多くのポスト抽象表現主義のアーティストのように、彼女の造る作品は一般的な姿を拒み、形のフィジオロジーに焦点を置きます。 彼女の作品に見る、形、重さ、重力、建物の空間を分割するような作品のあり方は、一見、アメリカ人彫刻家リッチャード・セラの作品を思い起こさせます。 しかし、彼とは違い、常木は驚きと欺瞞をテーマとします。 目で見える物が真実とは限りません。常木は、幻想を作り出す魔術師のようです。2009年の作品<ガーダー>の、重力に逆らうように空中に浮かぶ500センチの鋼のビームは、まさに魔術のようです。 この重たい鋼の柱は、あたかも動画の静止画のように時間が止まっているように見えます。常木がどうやってこの柱を時空に浮かばせたのかは、いくら見ても、分かりえないでしょう。 鋼に見える柱が実はフォームでつくられていて、コンクリートの地面に直面する角が実は地中に続く柱のサポートになっているのが、ツネギの魔法の秘密です。 同じく構造されているのが、彼女の2010年の作品<ドリップス>です。 鋼のフレームから垂れ下がるペンキの雫が、落ちる前の一瞬を永遠に止 め、保った作品です。また、この作品も<ガーダー>のように、ペンキはスポンジを使ってつくった作品です。 視聴者を惑わしていないのであれば、常木の作品は視聴者に空間の構造を尋ねています。 視聴者に新しい空間の見方を主張しているかのようです。 今回のザ・コンテインナーで展示する作品<In dwam>では、コンテナのサイズと空間を利用し、新しい空間とイルージョンをつくりま す。 インスタレーションは、<ウォール・ダンス>というミックスド・ メディアでつくられた壁と柱の構造と<アタッチメント>という天井からぶら下がる小さな彫刻の二つの作品です。 <ウォール・ダンス>(170x120x177cm)は、タイル張りの壁の中心にコンテナの天井から地面へ柱が突き刺さっている作品です。 一見すると、この作品は後ろの壁へと繋がるようであり、石膏で造られているように見えます。 しかし、よく見てみると分かるのが、壁が実は奥に向かっていくにつれカーブし、ハンドメイドの石膏製タイルで覆われた、フォームで形成された土台だということが分かります。 一見頑丈な構造も、映画の撮影現場のようにフェイクな模造でしかない幻想ということが明らかになります。 […]

It’s a long story, in full colour, without a happy ending

この長々と続くフルカラーの物語には、幸せな終わりがない It’s a long story, in full colour, without a happy ending   Jack McLean 1 December 2014 – 15 February 2015 Opening night reception: 1 December, 19:30 – 21:30 + Live performance art by the artist + Live music by Anthony Magor   Kindly supported by: .  .    ジャック・マックレーンの作品にふれるということは、単に絵画を見るということではありません。それは、マックレーンの産み出した、不思議なファンタジーの世界を覗くということです。マックレーンが丁寧に思い描く不思議と驚きに満ちた世界は、奇妙なシナリオと人物達でいっぱいです。マックレーンの作品の登場人物は、まさに色とりどり。フィクションから歴史的人物、マックレーン自身が出会った印象的な人物が続々と登場してきます。 彼が絶えず持ち歩く、小さなスケッチブックは人のスケッチでいっぱいです。二十年前、 スコットランドに住んでいた頃の知り合いから、東京の込み合った電車ですれ違った人達。悪夢から蘇えったゾンビ、ヤンキー、肥満症の観光客、オカマ男からサラリーマンなど、様々な人物が見られます。マックレーンの豊かな創造力により、記憶と想像はスケッチへと変わり、 私たちの目の前に広がる絵画の中の世界が発現します。シリーズは全部で七つの絵画です。この七つの中で、繰り返し絵画に現れてくる人物が三人います。それは、マックレーンの過去の作品から引っ張りだされたイエッテー、彫像とピエロです。2008年から2010年の二年間を渡って、世界各地の公園で披露したコンセプシャル・パフォーマンスシリーズ ”Hole” […]

Change Room

Robert Waters 8 September – 16 November 2014   Opening night reception: 8 September, 19:30 – 21:30 Exhibition catalogue     スペイン在住のカナダ人アーティスト、ロバート・ワータースの作品には変貌と進化というコンセプトが繰り返し現れます。活動初期のアメリカのモダニズムに影響されたコラージュと立体作品、数年間のメキシコ滞在期に宗教の影響を受けて制作した作品、そして昨今の作品に至るまで、ワータースの作品の持つ数多くのアイデア、イメージ、そして、そこから生まれる連想が織り成す重層性は、それを体験する主体に様々な主題や知覚についての再考を要請します。併置された多種多様なビジュアルとコンセプトは、連想的な知の働きに多くを負いながら、知識の再構築を促します。この十年間のワータースの主要なテーマのひとつとして、人間の身体、より正確には、人体の限界が挙げられます。ワータースの作品は、欲求、暴力、男性らしさの脆弱性、そしてジェンダーなどの私達が抑圧しようとする心身の直観的衝動を喚起します。そして、それらのすべてを通じて、身体は情緒的・社会的・知識的な特性を伴い進化する「機械」として再検証されるのです。肉体的な進化と大脳的な進化の間に生じたこの緊張関係からは、哲学的・社会的に構築されたものに関する言説が形作られていきます。それは例えば、人々のスポーツへの関心を定めているのはジェンダーか、あるいは社会的条件か、といった問いです。身体活動はワータースのThe Containerでのインスタレーション「チェンジ・ルーム」の主要なテーマにもなっています。心身の発達に関する歴史的参照としてギリシアのジムナジウムを用いることで、ワータースは肉体的/生理学的な身体の限界と心理的・知識的な身体の特性の間にある隔たりを考察します。とりわけワーターが照準を合わせているものは、男性の身体と男性らしさ、すなわち、その審美性、機能、社会的立場です。 その一例である《Resistance (water weights) [抵抗(水の重し)]》(2014)は、骨色の樹脂で鋳造された支柱にアーティストの汗を凍らせた重しを付けたダンベルです。この立体作品は展示空間で溶けながらやがて蒸発し、自然と生命の反復的サイクルと存在の短命性に対するワータースの関心をとりわけ際立たせています。 この立体作品に用いられた汗は、ワータースの《Purification Ritual[純化の儀式]》(2014)という作品を通じて生み出されたものです。この作品は、身体活動に焦点を合わせて私的に行われたコンセプチュアルな実験《Sweat Sweating (Solidification) - Autopoiesis Study III [汗 発汗 (凝固) – オートポイエーシス III]》に直接的に関わっています。「科学的実験」と記されたさらなる実験《Sweat Sweating (Condensation) – Autopoiesis Study II [汗 発汗 (凝結) – オートポイエーシス III] 》と《Sweat Sweating (Evaporation) – […]

Love Me, Bomb Me

Pedro Inoue 9 June – 17 August 2014   Opening night reception: 9 June, 19:30 – 21:30 革命はテレビ放映されないだろうが、ネット上では必ずや公開されることだろう。それはハッシュタグ、フェイスブック、ツイッターなどを経由して、ウイルス感染症のように蔓延する—国境や海を超え、政府を倒し、金融機関を揺るがし、世界秩序を塗り替える。中東の政治勢力の崩壊を伴ったアラブの春、イギリス・ベネズエラ・メキシコ・リマ・スペインの暴動、ニューヨークのウォール街・イスタンブール・アテネ・サンパウロで行われた反大企業と反権力層の傾向を持つデモンストレーションを伴った「占拠運動」など、ここ10年で多くの変化が見られた。ソーシャルメディア・インターネットミーム・スマートフォンアプリ、アサンジ・マニング・スノーデンなどの内部告発者の公表、政治的ハッカーによるサイバーテロ—これらが空気中に漂わせるのは変化の匂いである。ペドロ・イノウエは静かに身を潜めながら、この匂いを肺一杯に吸い込んでいた。 ペドロ・イノウエは長い間待っていた—政治家、大企業、軍隊、金のモチーフを頻繁に使用した社会政治的に対して明敏なグラフィックデザインを通して、噂を広め社会変化を呼びかけながら。 ブラジル出身のペドロ・イノウエは、商業デザインからアート作品まで幅広い制作を手がけながら、革命をゆっくりと企ててきた。韓国、日本、フランス、イギリスでの展示経験を有する彼は、デヴィッド・ボウイ、ダミアン・ハースト、坂本龍一などともコラボレーションをしている。またここ数年は、社会政治雑誌『アドバスターズ』のクリエイティブディレクターとしても活動している。商業的であれ芸術的であれ、彼の作品には全て、私たちが作り出した世界に対する容赦ない批判を見出すことができる。 例えば彼の素晴らしく繊細な「曼荼羅」には、目の錯覚を引き起こすような瞑想的で複雑な曼荼羅の模様が、幾百もの企業ロゴで構成されたデジタルデザインで施され、「恐怖万歳」、「軍隊&金融」、「最終セール」など機知に富んだタイトルがつけられている。曼荼羅を遠くから見ると、紙幣に印刷されている複雑な模様との関連性が思い浮かび、イメージの催眠術効果に不安と吐き気が催される。 イノウエの、幾百もの(時には幾千もの)バラバラなイメージをコラージュして複雑にまとめたデザインを生み出すグラフィック能力、そして一般に広く認識されるありふれた象徴や記号の語彙を美化する能力には、感嘆するばかりである。また身近な作品を試みた、彼のデザイン包装紙のシリーズも興味深い。美観性の高い豊富な模様を使い、サッダーム・フセイン(サッダーム)、シェル石油のロゴ(シェル)、飛行機や武器(恐怖)が描写されている。作品に近寄ると、初めてその不健全さ、隠れたサブリミナルメッセージ、皮肉が露になる。 イノウエの作品の本題のひとつとして、アーティストとお金、商業的な仕事と芸術な仕事との関係が挙げられる。過去の作品にはこの矛盾を処理しようと、高価な過程を以て限定版プリントを制作し、ランバダもしくはチバクロームを使い、アクリルとアルミニウム額を取り付けたものがある。これには、お金が飛び交う「安価な」日常から、アーティストとしての「純粋な」ビジョンを切り離す意図があった。これは完成した作品に磨きをかけるイノウエの関心、そして彼の現代美術界に対する考えにも呼応する。 東京ワンダーサイトのレジデントとして東京に滞在した際、イノウエは自分が、面白いと思っことや正しい道よりも、作品に「価値を付加する」というコンセプトに誘導されていることに気づいた。この発見により、作品を最安で制作する方法を追い求めた新たな作品シリーズの制作が促された。60年代70年代イタリアのアルテ・ポーヴェラの芸術家のように、イノウエは良質と低質の境を曖昧にし、良質な作品が安価な制作技術などの「低い」ものとは反対であるという相互関係に抵抗した考えを表した。 今回イノウエは、このコンセプトを更に掘り下げ、実際の展示スペース(壁、天井、床)の内部を全て、生地、幾何学模様、曼荼羅デザインで覆い、コンテナの空間の再創造を試みた。立体的なオブジェが一切ないにせよ、これは一種の彫刻インスタレーションとも言えるだろう。彼は、観者がインスタレーションとの相互作用から免れることのできない環境を作った—それはまるで観者に及ぼす視覚的かつ精神的なインパクトそのものが作品であるような、強要されたパフォーマンスアートのようである。   The revolution will not be televised, but it will most certainly be computed.It will be hashtagged, Facebooked, and Twitted. It will spread like a contagious viral disease – crossing […]

Wrong Translation

  Yu Araki 3 March – 19 May 2014   Opening night reception: 3 March, 19:30 – 21:30 Catalogue 荒木 悠はスパイである。彼は旅をし、身を隠し、発見する。あるときは周囲に溶け込み、またあるときは距離を置いて潜伏する。尾行し、撮影し、物語る。事実と歴史にフィクションと主観性を織り合わせ、文学、哲学、政治そして芸術を参照した驚くべき虚構を語り上げる。ドキュメンタリー風の情熱的な語りに満ちた彼のビデオ/フィルムは観る者たちを捕らえる罠であり、土地と次元を横断する文化的諜報活動の探訪の旅路へと彼らを送り出す。荒木の作品には常に窃視と移動の感覚が強く漂っている。パリの路上をバゲットの先端から覗き見し、韓国・大邱の駅ではじっと潜伏し、そしてベトナムではソーセージを作る。彼の作品は観る者をアイロニーとウィットたっぷりに人間を観察・体験する人類学者的なミッションへと誘う。それらの旅路は異なる国々の間の忘れられた歴史的繋がりを度々暴き出し、それらを政治的な結びつきへと調合する。あるいは、理論と文献の両方を内在する関係性を介して参照し、それらをひとつの物語へと丁寧に作り上げる。荒木が作品に用いる強い地域性を帯びた人物たち、そして彼らの習慣や規範に基づく行動や環境に対する省察からは、どこか異文化交流のような感覚を与えられることも多い。荒木は一定の基準にしたがって綿密なプランを立てるものの、その一方で偶然性や自発性の余地を残し、場所や状況そのものもまた語り手たることを可能にしている。おそらく潜在意識において、荒木の作品ではピーナッツ、貝、オリーブオイルにいたる様々な食物に注意を引かれることが多い。それは文化的なメタファーであると同時に政治的なカードでもあり、ステレオタイプ、文化的遺産、地政学、歴史から一本の縦糸が紡ぎ出すのだ。 作品において荒木はカメラ、自己、そして外界の関係性を熟考し、内と外の境界を探索しながら、様々な役柄の間をあざやかに推移する。いくつかの作品では彼はカメラを口の中に隠し、さらには体内に埋め込むことで、彼自身がカメラとなる。またあるときは荒木は距離を置いて撮影を行い、観客は荒木と共に身を潜め、彼の目を通じて対象をスパイし、静かに観察する。このインサイダーとアウトサイダーの役割転換が際立たせるのが、人間心理への彼の興味であり、社会の周縁に留まる彼の能力である。もっとも、もし社会の状況がそれを許すならば社会に溶け込むこともある。おそらくそれは、私たちが何処に住み、何を信じ、何をして、何を食べていようと似たもの同士であるということの寓話あるいは暗示なのだ。 このインサイダーとアウトサイダーの相互作用はThe Containerで展示される「ANGELO LIVES」(2014)において最も明らかである。このサイト・スペシフィックなインスタレーションは、荒木が2013年夏にスペインのサンタンデールで行ったレジデンスから着想を得ている。スペイン・イタリア・日本を舞台に歴史的なイメージや絵画や地図なども含めて撮影されたビデオのモンタージュからなる映像作品は、観客を連想と暗示の世界へとゆっくりと誘い込むコラージュである。外への展望と内なる瞑想が入り混じったカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『雲海の上の旅人』(1818)のタブローを参照して始まる映像は、絡み合う寓話の迷宮へとすぐさま出発する。 サンタンデールで制作され展示された元の映像作品は、サンタンデールの熟練の探検家Vital Alsar(1933生)のテキスト、そして17世紀にポルトガルからキリスト教弾圧期の江戸時代の日本に渡った若い宣教師セバスチャン・ロドリゴ(Sebastiao Rodrigues)の物語を描いた遠藤周作の小説「沈黙」(1966)に倣い、九つの章で構成されている。この映像作品では宗教地政学的なモチーフと「新世界」におけるオリーブの普及の間にフィクション的な相関性が築かれている。 「ANGELO LIVES」はこの物語により一層の抽象化を施して再探訪し、おそらくはフィクションから超現実への出発となるものである。映像を導くのはアンジロウ、あるいは彼の幽霊のナレーションである。アンジロウは、イエスズ会の日本における宣教活動の記録が示すところによれば、16世紀に殺人の罪でマレーシアのマラッカに送られ、その後は通訳として聖フランシス・ザビエルと二人の修道士と共に日本に戻ったとされている。 個人的解釈という概念は荒木の中心的な関心であり、この新しい映像作品の中心をなしている。疎外された存在であり一見して情緒不安定でもありながら通訳という行為の繊細さをすべて理解しているアンジロウは、ナレーターとして適切な選択だと考えられる。仏教徒に対して「GOD」を「大日」(仏教における神の一人)と訳するよう薦めた彼の提言は、ザビエルの「デウス(Zeus)」に取って代わられ、仏僧たちからの敵意を生み出す結果となった。 映像作品で用いられる音声は、明治維新後19世紀半ばに宗教の自由が再び確立されるまで弾圧を受け続けた「隠れキリシタン」と呼ばれる日本のキリスト教信者たちの抄本の朗読を含んでいる。文字の資料を残さないための密かな努力として、隠れキリシタンたちはラテン語、スペイン語、ポルトガル語、日本語で祈りの言葉を口頭で交し合い、それは時を経るにつれて「伝言ゲーム」の中で意味不明なものとなっていく。にもかかわらず、それはスペイン語と思われる言葉に似た響きを持ち、作品に謎めいた超現実的な雰囲気を与えている。また、隠れキリシタンたちがやはり弾圧を避ける目的で祈りの言葉を仏教の読経のように唱えた「オラショ (Oratio)」も作品に用いられており、その美しく切望に満ちた響きは逆再生されながらこの作品に神秘、切望、秘密、孤独という一層の美を与えている。 映像作品の中核をなすのはオリーブとオリーブオイルへのこだわりである。近作の荒木はアジア・オーストラリア・アメリカへのキリスト教の普及とオリーブオイルの輸出の間に自ら見い出した相関性を以前ほど押し出していないものの、オリーブの木と実はなおも長きに渡り確立されてきた文化・歴史・宗教の関係性を存分に用いるための象徴的な役割を与えられている。また、「ANGELO LIVES」で文化的アイデンティティや遺産を示すものとしての用いられるオリーブの木と実は、パレスチナの作家Raafat Hattabが切望の表現と民族性の象徴としてオリーブの木を用いた映像作品「Bidun Enwan, Untitled」 (2009) を想起させる。 カメラ、アーティスト、そして観客の関係性に対する荒木の関心は、実験性と視覚的祝祭性につながる。彼が以前に「entrevoir」(2013)でも行った口の中へカメラを隠す行為は、理論や概念を表現するためだけに用いられているのではなく、むしろ映画的な効果をもたらす好機として用いられている。露出オーバーの映像と口の形に切り取られたフレーミングは抽象性と超現実性の素晴らしい混合物となり、浜辺の男たち、水、そしてどこにでも現れるオリーブの実へと美しく推移しながら、(The Containerの形状によって定められた)矩形の次元の中であちらこちらへ踊り転げるオリーブを映す。 なによりも「ANGELO LIVES」は、アーティストが周囲の環境へ向ける眼差しとアーティスト自らが作り出した連想へのこだわり、すなわち、ひとりのアーティストがいかにして作品を制作するかの実例を示している (それはおそらく、スタジオで作業中のアーティストを観るシーンで最も際立っている)。スペインのバルと聖戦、消滅した幽霊たち、忘れられた宗教、文化的な歴史―彼の連想は視覚、思想、音響の謎めいた収集物からなる絡まった網の目へと私たちを連れ出し、宗教を旅と発見に結びつけていく。驚くまでもなく、映像作品の幕を下ろすのはまたしても口であり、編集のトリックによってそれは目へと変形し、観客を見つめ返す仮面のようなものとなり、瞳孔として視界の中央に再び戻ってきたオリーブはちらつきとまばたきを織り交ぜながら陽光の中で輝いている。 Yu Araki is a spy. He travels, he hides, he discovers; […]

Multi(Multi)(ple(s))

 Multi(Multi)(ple(s)) Beatriz Inglessis, Hideki Nakazawa, Ami Clarke, Nadja Solari, Shibuhouse, Louise Harris, Zevs, Robert Waters, Jack McLean, Yu Araki   2 December 2013 – 17 February 2014 Opening night reception: 2 December, 19:30 – 21:30 Multi(Multi)(ple(s))はオリジナルなショーではありません。恥知らずなほどにアートを製造し、小売りし、アートを身近なものとして手頃な価格で収集できる手段を提供する場所なのです。再生産、増産、製造、そして複製するこの企画は現代アートの目的にあえて挑戦しています。 ”人としての人、その人の脳って言えばいいのかな、一個人の方にアーティストの作品より興味をひかれる。ほとんどのアーティストは自分自身を繰り返しているだけってことに気づいたので”– マルセル・デュシャン この展覧会はアートと小売りに関する思考やアイデアを探求するため選り抜きの国内外現代美術アーティストを結集し、複製、写真、彫刻、オブジェからDVDや書籍など幅広い作品を紹介します。ノベルティ物あり、実際「使用できるもの」もありますが、作品すべてがプロのアーティストによって概念芸術化され、デザインされ、サインされたものです。 Multi(Multi)(ple(s))は、アーティストによる作品を展示すること以上に、ショー開催中The Containerを特設ショップに改装し、またこれを機会にオンラインショッピングを立ち上げ展示会終了後も作品の購入が可能になります。現代アートと主流アートとの境界に挑戦すること、日本の魅力と小売り文化に焦点を当てながら芸術の創造と作品の収集の民主化を目的としています。 展示会開催中、The Containerは、日本中どこにでもある、国際的に日本の小売り気質のシンボルと同意語の自動販売機をインスタレーションのひとつとして展示します。飲料水の自動販売機には驚きのアーティストサイン入りのアートワーク「瓶に入ったメッセージ」が展示され来場者は各作品は2000円のお手軽な価格で購入でき、お金持ちもそうでない人も本物のアートを手にThe Containerを後にしていただけます。 この展示会が楽しいことは否めません。このために沢山のアーティストは、各々の芸術実践と強く結び付けつつ、小生意気でユーモラス、時にはシュールな作品を創作しました。例えばスイス出身アーティストのナジャ・ソラリの “ホーム・スライス”(2013)出展”especially tosted for you” は限定数10のラッカー処理されたフックつきのトーストで、彼女の長年に渡る日常品とはかなさに対する魅力を表現しています。ゼウスの “Yubitsume Mona Lisa” (2013),は木箱に入ったモナリザの指のレンチキュラープリントで、限定数6を出展。”Yubitsume”(指詰め)は刃物で指を切断することによって処罰の手段、謝罪の表示方法として行われる暴力団に見られる儀式で、本アーティストの2002年の手の込んだ介入アクト”Visual Kidnapping”を 思い起こさせます。またユーモラスなのは東京をベースとするスコットランド出身のジャック・マクレーンが今回のために創作した数点の作品で、数種のTシャツ、お皿、オブジェは彼のパフォーマンスアートでのパソナ”The […]

Zevs: 楽園 / Heaven

29 April – 14 July 2013 Catalogue . . Gadabout Magazine   |   Glass Magazine   |   TYO   |   BLOUINArtinfo   |   Japan Times   |   Metropolis Magazine . (English below) 21 世紀のストリート・アートは、理論的にも技術的にも統一されてはいない様々な積み重ねの混成からなるもので、その多くがアートの伝統において認められつつ あります。1960年代後半と1970年代初期のアイコン的なヒップホップ・カルチャーのタギングやグラフィティからの旅路を経て、アナキズムと反体制に もなお深く根ざしているストリート・アートは、アクティヴィズムや社会批判と同化することも多々あります。1990年代以降には、実際のコミュニティ、 様々な階層、独自のコミュニケーション手段や視覚的言語を伴った現実のムーブメントとしてストリート・アートは確立されるようになりました。それは誰もが 認める一定のスタイルや技法としてではなく、多岐にわたる実践の交配種、そして、グローバルな認知を得たシンボルやイメージやテーマを再び領有(アプロプ リエーション)するものとして認められています。 そうした再領有のひとつに、フランスのアーチスト・Zevsによる《液状化 (Liquidated)》シリーズがあり、広く知られたブランドロゴを塗料の滴りによって融解させるこの作品は2000年代半ばから実践され、彼の名を 世界中に知らしめることになりました。McDonald’s、Louis Vuitton、Chanel、そしてGoogleなどの国際的な大企業のロゴは至るところに現れ、一日にそれを幾度となく目にすることはすでに当然のこ とになっていますが、強烈かつ繊細なイメージを創り出すZevsの巧みな筆さばきは、そうした大企業たちを滴る塗料とともに融解させ、その弱点を冗談めか しく仄めかし、その崩壊の予兆を示しつつ、20世紀から21世紀に至る消費主義を笑い飛ばすのです。 私たちはいわゆる「ブランド品」を購入 し所有できることが自由の象徴であり社会的地位と快適な生活の向上であると考えがちですが、消費主義・商品・ロゴに対するZevsの熱心な関わりは、その ような自由が幻想であることを最もさりげない方法で教えてくれます。つまり、私たちは大企業による搾取の虜となるために進化してきたのです。Zevsは消 費主義の心理的なリアリティを暴き出し、私たちを饒舌に欺く砂糖漬けの薄っぺらい幻想を粉砕します。滴り落ちるロゴは、まさしく死や痛みがそうであるよう に、もし陰鬱ではないとすれば、詩的で美しいものとして目に映るでしょう。それはとっさに傷口、滴る血、殺人を想わせるものであり、さらにはロゴの下に 往々にして生じる塗料だまりは、優美でもあり警鐘を鳴らすものでもあるのです。 The Containerでの展示では、Zevs自身がデザインしニューヨークの街頭に貼り出した《Adam & Eve》(2013)という題の二枚組ポスターを展示します。一方は「液状化」したApple社のロゴを描いており、他方は1526年にドイツ人画家ルー カス・クラナッハ(子)が制作したルネサンス期の絵画《Adam & Eve》を参照しています。一対の若い男女がどこかエロチックな仕草で智慧の実である林檎を分かち合う様子は、それがクラナッハの絵画のアイコニックな構 図であることにすぐに気付かせるものでしょう。しかしその文脈は現代的なものです。この一対の男女はニューヨークのアップルストアにおり、彼らの頭上には Apple社のロゴが浮かび、そのロゴはさらにガラスの壁に反射しています。彼らが分かち合う林檎はiPhoneに映し出されるApple社のロゴに過ぎ […]

Beatriz Inglessis: On Mosquitoes, Humans, and Other Animals

Beatriz Inglessis: On Mosquitoes, Humans, and Other Animals A discourse on vectors and hosts with philosopher Suzanne McCullagh and educationalist Renee Jackson 14 January – 31 March 2013 . Exhibition’s catalogue is available on Amazon Watch a short video documentation from the opening reception . BlouinARTINFO | Glass | Trafico Visual | Japan Times . […]

Systems and Methods in Hidden Functions

Systems and Methods in Hidden Functions Hideki Nakazawa 10 September – 10 December 2012 . Japan Times | Japan’s Agency for Cultural Affairs | Art-iT | Bijutsu-Techo / BT | Metropolis | TYO (English below) 60年代と70年代のシステミック・ペインティング及びコンセプチュアル・アートに影響された中ザワヒデキの作品は、構造、数学、デジタル技術、グラフィックスの連携により、90年代初頭より日本のアートシーンに挑み続けてきました。中ザワのアートを形作る規則正しい手法への固執は、彼が名付けた「方法主義」という新たな動向を日本の現代美術界にもたらしました。方法絵画、芸術特許、執筆活動、そして90年代半ばに考案されたソフトウェア「デジタルネンド」(1998-2001年に特許を取得した、PCでの3Dビットマップ絵画の制作を促進するプログラム)等の発明により、中ザワのアート制作は発展してきました。これらはクルト・シュヴィッタースのコラージュや「ウルソナタ」の作曲といったダダイスト観念、ソル・ルウィットの概念構造、村上隆の「スーパーフラット」作品等の間を表情豊かに橋架けていると言えるでしょう。 本展覧会では中ザワの90年代の作品の現在における関連性が探究され、日本現代美術の新世代に与えた影響が再検討されます。現代美術と批評的課題を日本のサブカルチャーと関連させることへの固執は、間違いなく現在の日本のアートシーンにおけるChim↑Pomや渋家(両者共にThe Containerにて過去に出展)、そして中ザワに続いた「新・方法」アーティストたちの作品を生み出すことに加担したと言えるでしょう。彼の「時代遅れ」なグラフィックス、そしてピクセル及びタイポグラフィを用いたコンセプチュアルな模様の絵画は、今もなお新鮮に目に映り、現代性を強く維持しています。

House 100 Shibuhouse

House 100 Shibuhouse 21 May – 30 July 2012 . Glass | Art-iT (English below) “前衛が死に、皮肉的な表現が増えるいま、美術は誠実さを欠いているようにみえる。ナルシズムとニヒリズムは存在しない注目を浴びようと戦い、キッチュとキャンプは形骸とかした主役の座を奪い合い、アーティストと批評家は鏡に写る自分の姿を見てエゴイズムに酔うだけだ。 Ken Wilber, The Eye of Spirit: Integral Art and Literary Theory 今回の渋家「House 100」展は、渋家のありのままを展示するという、パフォーマンス要素を取り入れた試みです。渋家とは2008に形成されたアーティスト・コレクティブで、かれらは渋谷でシェアハウスをしながらアートの可能性を探っています。今回の展示は、アーティスト、デザイナー、ミュージシャンなど渋家のメンバー達自身がインスピレーションを受けた人々にインタビューして、日常とアートを分つ境界線を問うことを主旨としています。 会期中The Containerはオフィス風、あるいは渋家の家のように改装され、インタビューワーとは雑談形式で家や家族、またそれらが芸術活動へ及ぼす影響について会話します。 インタビューはどれもネットで生中継され、後日オンラインで動画を観ることもできます。加えて、ブログやツィッターによる詳細も随時ネット上に載せられます。 “中継は…少し前に見た動画がどんどん消えて流れていく。電子は、一フレームごとに二つのイメージを構築し組み合わせて画面を完成させる。だがスクリーン上にみる動きは、連続したフレームによる目の錯覚にしか過ぎないうえ、一つ一つのフレームは不完全な画の連続でしかないのだ…“ Sean Cubitt, Timeshift: On Video Culture 会期中The Containerには、インタビューのための椅子、ライト、パソコン、ビデオカメの他、渋家メンバーの写真が雑誌Time Magazineが毎年発表する「世界で最も影響力のある100人のリスト」を模したレイアウトで展示されています。インタビューが一つ終わると、インタビューワーの写真も壁に加えられていきます。 インタビューが行われている際にThe Containerへ行った場合、コンテナ内に入ることはできないものの、外から見ることはできます。

Be Seeing You + UN-PUBLISH

Be Seeing You Ami Clarke 23 January – 9 April 2012 + UN-PUBLISH (publication) Ami Clarke . Tokyo Art Beat | Glass | Metropolis 情報で溢れかえる今日の社会において、私たちは日々、自分が受信する情報の選別は勿論、自分の発信する情報もコントロールしています。何をどこまで公にするかという問題は、一個人の杞憂でありつつ政府も頭を悩ます問題です。 今回のインスタレーションBe Seeing Youは、二つのビデオ作品を通して、資本主義社会における個人情報の要求、また強制的搾取について言及します。 二つのビデオのうち一つは、1960年代にイギリスで放送され、今もなおカルト的人気を誇るSFテレビドラマ『ザ・プリズナー』を引用し、ドラマ内に登場するローバーと呼ばれる白い円形の物体を、恐怖と抑圧の象徴としてピックアップします。 繋ぎ合わされた映像の断片、反復するイメージ、光の明滅。映像を見るうちに、観客は、否応無しに作品の織りなす世界へ取り込まれてしまいます。マクルーハンの「聴覚は単一の視点を持たない…私たちは音に内包されている」という言葉を用いるなら、クラークのビデオ作品は視点をもたないことにより、聴覚的な視覚体験を可能にしていると言えるでしょう。 このような特殊な視覚体験に加え、作品の持つユーモアの要素も、様々な解釈の可能性を秘めています。 「コミュニケーション・システムとしてのユーモア、また、社会問題として表れるユーモアは…論説としてではなく、実体験で感じられる人々の感性の変化を表す指標として意味がある…今日のユーモアには筋書きがなく、ほとんどの場合が、圧縮され積み重ねられた物語だ。」(1964) もう一つのビデオ作品”Eye Technics” 2012 (ビデオ、0.53分)は、目の構造を意識し、潜望鏡の中を覗き込む形で設置されます。

K-I-S-S-I-N-G

K-I-S-S-I-N-G Chim↑ Pom 26 September – 19 December 2011 . Tokyo Art Beat | Glass | Tokyo Art Tool | Japan Times | CNNgo 人は辛い現状に行き当たると、他人から愛や同情を求めるものです。 ダライ・ラマいわく同情とは:「相手が悩みから解放されるように願う心」です。 3月11日の震災以降多くの婚活サイトがその登録メンバー数の急増を記録し、あるウェディングサービス業者は福島支部の売り上げが50%増加した、と報じる朝日新聞の記事からも分かる通り、震災以降、多くの人が自分の現状に不安を覚え、周りに愛と同情を求めています。 本展示はこのような、今人々が感じている「不安」や「寂しさ」をテーマとしています。 前々からChim↑Pomは、日本社会にアートで直接的に介入することをその手法としてきましたが、震災以降、グループの持ち味である大胆さをより一層増したかのように見えます。彼らによる、JR渋谷駅の岡本太郎の壁画に新たにキャンバスを付け加えるパフォーマンスは多くの人々の注目を集め、物議を醸し出し、そのうえ海外メディアでも大きく取り上げられました。

Anything But

Anything But LG Williams / Estate of LG Williams 6 June – 29 August 2011 . Time Out Tokyo | Tokyo Art Beat | Japan Times | Metropolis LGウィリアムズ/エステート・オブ・LGウィリアムズの作品は、謎深い不確実性をもって美術とその歴史に疑問を投げかけます。「常識」をもう一度考え直すよう促しつつ、彼の皮肉のこもった常識はずれの作品は、私たちを見るもの理解するもの全てが疑わしい混乱した空間へと誘います。 今回のThe Container “Anything But”でウィリアムズは、色とりどりのマスキングテープを用いて抽象的なドローイングを作り出しています。初見、1950-60年代米国の抽象表現主義を彷彿させるものの、見る者の視覚を混乱させる重なり合う四角のイメージ群は、コンセプシャル・アートの哲学と思想を体現しています。 最近の彼の作品テーマは、文化・アイデンティティ・ジェンダーポリティクスから広がりを見せ、政治史、哲学史、経済史、美術史の中で忘れ去られた人々をとりあげています。長方形を山のように成形した“What The Fuck Rectangles #23”は経済学に触れつつ、「形象」「平面」「長方形」の区別を曖昧にさせた彼の十年前の作品にも関連しています。 LGウィリアムズは1969年カリフォルニア州シェーバーレイクに生まれ、旅をしつつ創作活動を続けています。カリフォルニア大学ディビス校にて美術学修士を取得後、カンザスシティアートインスティチュートより学士を取得。その後、カリフォルニア大学ディビス校、南カリフォルニア大学、カリフォルニアアートカレッジ、ハワイ大学などで美術および美術史を教えた経験を持っています。 また執筆活動も盛んで、Modern Painters, Juxtapoz, Artweek, Art Papers, Village Voice, San Francisco Chronicle, Tokyo Weekender Magazine, Honolulu Bulletin, […]

Salt Mine

Salt Mine | 岩塩坑 Jack McLean 7 March – 23 May 2011 . Artforum | Japan Times | Tokyo Art Beat | Glass Magazine | Metropolis | Tokyo Art Beat Deriding Japan’s salary-man culture is the theme of the Scottish Tokyo-based artist Jack McLean’s exhibition, Salt Mine, at The Container. The artist, who is best […]