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Mark Kelner: Barcodes

  Barcodes   マーク・ケルナー Mark Kelner 12 April – 28 June, 2021     © Mark Kelner, 2021. Turquoise Marylin, digital print on primed canvas, 101 cm x 101 cm. . 芸術は先史時代の頃から人間とその文化を定義してきた。私たちは、壁画を見ては古代人の生き様や社会の在り方について知り、ギリシャ建築や遺物を見ては古代ギリシャ帝国の人々の生活や価値観について、ルネッサンス絵画を見ては当時の規範、技術、流行について学ぶ。芸術はつまり、人間の「他の生き物」からの差別化と、歴史文化の定義を可能にするものであり、人類の姿を映す鏡であり続けてきたのだ。これこそ芸術の強みであり、もっと言ってしまえば、その価値なのである。 20世紀がもたらした技術の進歩と豊かさや現代についての思想の変化は、我々の芸術の見方と価値づけに大きな変化を与えた。どこにでもオークション·ハウスが立つようになり、国際アート·フェアでも同様、一つの作品で数百万ドルもの売上が出せる「グローバルなアート市場」が広まった。芸術はあちこちでコモディティ化するようになり、作品所有者の社会的地位と権力を象徴するものに転化した。 当然、これらの現象は、従来の芸術の存在意義とは反している。芸術は、芸術家が文化を定義し、コミュニケーションのために使うツールであって、大金持ちが富とステータスを誇示するために対象化されるだけのものではない。どんなに美しくて崇高な作品でも、果たして何億ドルもの価値があるのだろうか?そしてあらゆる作品の制作者たちが今日生きていたら、我々現代人が消費主義的な価値を加えているのを見て、どう思うことだろうか。もっとも、ある作品の文化的価値がそんなに高いのであれば、どこかの金持ちの個人宅で公衆から遥か遠くに置かれてしまうより、美術館のように、パブリックドメインの場で鑑賞され、楽しまれるべきなのではないのか? アメリカ人芸術家のマーク·ケルナーが今回、ザ·コンテナーで展示する作品シリーズの問いはまさにそれだ。ケルナーのアプローチは、前作に続き、皮肉っぽい分かりやすさがあり、作品を見る人に対して消費主義と資本主義の再考を促す、彼の社会政治的センスと洒落た美学が発揮されている。本展「バーコード」では過去20年間にわたって芸術作品の最高額を叩きのめしたクラシック及び現代絵画の作品を、バーコードを彷彿させる白黒の線シルエットで再構成することで、簡素で素朴な形となるまで絵の内容と表現を切り詰めている。 世界中の人々から愛されてきた有名な絵画作品たちが、現代の消費主義の象徴とも言える、見慣れすぎたバーコードと衝突するのを見ると、芸術のコモディティ化のばからしさについて改めて考えさせられる。作品は、正真正銘のケルナー流と言おう、ポスターチックで、おぼろげに再表現されており、その矛盾した価値が露呈される、ポップ·アート的な魅力が出ている。バーコードという消費主義的商業文化の言語を通じて、高尚な芸術とグローバルな資本主義が織りなす虚偽を表している。我々の生活のありとあらゆる側面に関わる消費者主義に触れながら、高級な文化と低級な文化の交点を表現している。 再構成された絵画は下塗りされたキャンバスにデジタル印刷され、全てオリジナルの作品と同じサイズで作られている。本展では次の作品を展示する予定である。レオナルド·ダヴィンチの「サルバトール·ムンディ」65.5cm x 48.7 cm、1500年頃制作。2017年にクリスティーズで450,312,500米ドルというとんでもない金額で落札された(サウジアラビアのムハンマド·ビン·サルマーン皇太子に買われたという噂がある)。より安価な作品例では、アメデオ·モディリアーニの「赤い裸婦」、60cm x 92cm、1917年制作などがある。2015年にクリスティーズで中国人コレクターの劉益謙に170,405,000米ドルで落札されている。最安価なのは、誰が見ても分かる、アンディ·ウォーホルの「ターコイズ·マリリン」101cm x 101cm、1964年制作。2007年、非公開で8000万米ドルでスティーブン·コーエンに買収されている。通常では感動の涙をもたらす十点のセレクションが全て同時に展示されるわけだが、簡素化されてディテールが欠けていても、原画が何か一目瞭然だ。 また、本展の来場者は、作品と交流することもできる。展示エントランスに設置されたQRコード(本カタログにも掲載)をスマートフォンでスキャンすれば、原画についての情報が追加して得られる他、ケルナーがデザインしたバーコード·イメージの記念品の購入案内も受けられる。バーコードのシルエットでデザインされたフェイスマスク、絵葉書、トートバックなど、芸術のコモデイティ化のばからしさに皮肉がらずに問題提起している商品が、いわゆる「一般的なコモディティ」としてお買い求めいただける。 ケルナーによれば、他の企画に集中するため作業したりしなかったりで、本展のコンセプト化は何年かかかったらしい。ケルナーは、本展で取り上げられている絵画をバーコードの他にも幅広い手法で芸術表現を追求しているので、今後ますますの展開が期待されるプロジェクトの初展として東京の皆さんに届けられるのを、ザ·コンテナーの我々はとても嬉しく思う。本展が実現した発端となった会話も、実は新型コロナウイルスの感染が拡大した直前、2020年2月にワシントンDCでケルナーとミーティングをした時のことである。イギリス系アメリカ人芸術家のナタリー·クラーク(彼女も2018年にザ·コンテナーで「イントゥ·ザ·カーブ」という体感型展示を催した)のおかげで叶った出会いだったが、彼女の紹介によってケルナーと彼の作品と出会えたのは、新たな芸術家を発見できたという私の私的な体験に留まらず、アート·コミュニティの、芸術家と芸術業界との絆を深め、創造性の繁栄を援助する役割を表している。芸術が創り始められた大昔よりコミュニティが果たしてきた重要な役割である。 ケルナーの本展における新作は、絵画とポスターチックなデザインから構成された彼の作品体から自然と発展したものである。彼は長期にわたりグラフィック·デザインやマーケティング手法に興味を持ち続けてきたわけで、意図的であるかは不明だが、政治社会に異議を唱える一つのツールとして、作品の中心的なテーマとなることが多い。例えば、ワシントンDCのカルチャー·ハウスで最近飾った屋外型展示作品「プレジャーズ·プロミス(快適さの約束)」は、長さ120フィート(約36メートル)もあるが、煙草ブランド·ニューポートの「アライブ·ウィズ·プレジャー(愉快適悦)!」というスローガンを、地域社会の階級浄化と絡めながらからかっている。ブランドの表号であるタイプフェースと緑とオレンジの二色を使愛ことで、社会の高級化を表し、ニューポート社のマーケティングの空虚さを軽蔑している。「ソラリス」や「サイン&ワンダー」など他のプロジェクトでも、著名な芸術家やソ連のプロパガンダ·ポスターなどあらゆる芸術作品の像を線形化することで、新たな芸術言語を生み出している。 ザ·コンテナーで行うこの展示は、マーク·ケルナーにとって日本で初めて行う展示である。コモディティ化や消費主義を主題に、芸術の価値について再考を促す、インタラクティブな作品シリーズの新作を、消費主義者の世界首都ともいえる東京で公開するのは、なんとも巡り合わせが良かろうことか。 Since prehistory, art has been defining humanity and culture: […]

In search of the juncture of three coincidental sites

In search of the juncture of three coincidental sites 金子未弥  |  Miya Kaneko   11 June – 26 August 2018 Opening night reception + publication launch: 11 June, 19:30 – 21:30       都市風景をナビゲーションすることは、A・Bといったニ地点間を単純移動することよりも、はるかに多くのことを思い浮かばせる。家から職場までの通勤路といった最もつまらない移動においても、記憶や連想を「まとった」私たちの主観的な解釈は、特定の場所や空間に対する私たちの観点を「飾っている」。新進気鋭の日本人アーティスト金子未弥は、その点を非常に深く理解していると言えよう。アーティストと専門家の両者として彼女は、一都市全体や特定の場所が彼女や他人にとって如何なる意味を持ち得てきたのかと何年も探求してきた。  彼女はここ数年にわたって人や空間の表現方法を画や彫刻など様々な手法を用いて研究している。彼女の取り組みは特定の空間へフォーカスしたことをきっかけに芽生え、「都市とは何からできているのか」という問いへ対する個人的な探求へと変化してきた。特に彼女の制作工程は、個々人が特定の空間を如何に捉えているのかを理解することに重点を置いている。特定の空間へ対して個々人は一体どのように関わっているのだろうか?例えば、彼女の東京は他人の東京と同じものであろうか?当然のことながらこれらの問いへ対する答えとして、都市は人生上の他の問いと同様で、個々人の記憶やアソシエーションに覆われているということである。人はそれぞれ同じ道や空間を取っても、捉え方や考え方が全く異なることがあり、それは個人的なコノテーションや人生経験が道や空間への捉え方や考え方を影響する傾向にあるからである。 このような一空間へ対する個々人の理解の差異は、金子の芸術的実践を刺激するのである。彼女は空間を体験・歴史・アソシエーションの集合体である、記憶のアーカイブとして捉えている。彼女の制作は主に都市的なイメージのある金属を用いているが、それは金属が日常生活において幅広く使用され、多能性や液体化する性質を持っているからである。つまり金子によれば、金属は都市の特質と強く結びついているのである。 コンテナーでの金子の展覧会『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、三つの作品を通じて彼女の制作の多様性を披露し、彼女と都市と地図との間の関係性の進展を強調している。最も初期の作品は2013年に作成された「東京」であるが、鉄棒から作られた、東京の巨大な立体地図である。戦後直後と現代の東京の地図などをもとに制作されており、東京の複雑な変化や進化が作品のヒントとなっている。 複雑で多層的なこの彫像は、都市の「血脈」や道路を巨大な蜘蛛の巣のように織り出しており、歴史と記憶の重みが、時間とともに物質的・心理的変化を促進させていることを表現している。彫像は分厚い鉄棒から作られているが、もろさと希薄さも同時に表現されており、作品は大都市の工業的な本質とは対照的な、歴史や記憶の儚い関係性のアレゴリーとしても成立している。 また、『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、金子の作品のうちコミュニティから発想を得た二点を展示している。一点目は本展用に制作された大地図「スケールから地図を解放せよ」であり、二点目は様々な都市の名前が彫られたアルミ製の皿のセレクションである(東京ミッドタウンにてグループ・ショーで展示済)。これらの作品は、都市のポートレートや個人のポートレートを造ろうと、多くの人々(ギャラリー来客者、ワークショップ、メール)からのインプットに依ったものである。 「都市を解剖し忘却を得よ」は都市名が彫られた数々のアルミ製の皿であるが、これらは自分にとって重要な都市や空間の地図・説明・関係性を一般人から募ったものである。集められた地図は様々な形をとっている。本物のものや写真のものもあれば、メモや個人の記憶に頼ったものもある。これらは集められた情報によってできた金子自身の理解やアソシエーションからビジュアルな表現として統合、体現されている。                        金子の最も新しいプロジェクトである「透明な地図」は、人々の経験と記憶の交わりを更に一歩進めている。想像上であれ、リアルであれ、アソシエーションのリンクや重複は一般人から募った情報を通じて造られ、多様な図形の画は、実体的なコネクションや形を織られることによって完成したのである。透明な「コミュニティ」(金子は「都市」と呼んでいる)は常に変化しており、物理的には実在しないかもしれないが、共有された記憶や経験の超越したことから存在している。都市と都市のマッピング、マッピングによって完成した画は、一般の人々との交流ワークショップで造られているが、おおよそ他人同士の人間によって情報が同時に共有されて造られる「空間」は、常時変化・進化し続けるアソシエーションのリンクや何層もの複雑性が、無限のスケールや形状とともに造られていることからできたものである。 金子未弥の都市と都市のマッピングへ対する熱意は、個人的・歴史的・文化的記憶を統合させているが、これは集合的な記憶を具体化するためであり、また、空間とは、使用に慣れて頼りすぎるようになった、ナビゲーション・システムやスクリーン上のデジタルな地図の一地点よりも大きな意味を持っていることを示すためである。実に空間は、それぞれ多くの人々の経験やアソシエーションから形作られた記憶を持している。   金子未弥:2011年、多摩美術大学を卒業、工芸学学士号を取得。2013年、同大学院より修士号を取得。2017年、同大学院より博士号を取得。同年、多摩美術大学博士課程卒業制作展に出展。2016年、釜山Art […]