Barcodes マーク・ケルナー Mark Kelner 12 April – 28 June, 2021 © Mark Kelner, 2021. Turquoise Marylin, digital print on primed canvas, 101 cm x 101 cm. . 芸術は先史時代の頃から人間とその文化を定義してきた。私たちは、壁画を見ては古代人の生き様や社会の在り方について知り、ギリシャ建築や遺物を見ては古代ギリシャ帝国の人々の生活や価値観について、ルネッサンス絵画を見ては当時の規範、技術、流行について学ぶ。芸術はつまり、人間の「他の生き物」からの差別化と、歴史文化の定義を可能にするものであり、人類の姿を映す鏡であり続けてきたのだ。これこそ芸術の強みであり、もっと言ってしまえば、その価値なのである。 20世紀がもたらした技術の進歩と豊かさや現代についての思想の変化は、我々の芸術の見方と価値づけに大きな変化を与えた。どこにでもオークション·ハウスが立つようになり、国際アート·フェアでも同様、一つの作品で数百万ドルもの売上が出せる「グローバルなアート市場」が広まった。芸術はあちこちでコモディティ化するようになり、作品所有者の社会的地位と権力を象徴するものに転化した。 当然、これらの現象は、従来の芸術の存在意義とは反している。芸術は、芸術家が文化を定義し、コミュニケーションのために使うツールであって、大金持ちが富とステータスを誇示するために対象化されるだけのものではない。どんなに美しくて崇高な作品でも、果たして何億ドルもの価値があるのだろうか?そしてあらゆる作品の制作者たちが今日生きていたら、我々現代人が消費主義的な価値を加えているのを見て、どう思うことだろうか。もっとも、ある作品の文化的価値がそんなに高いのであれば、どこかの金持ちの個人宅で公衆から遥か遠くに置かれてしまうより、美術館のように、パブリックドメインの場で鑑賞され、楽しまれるべきなのではないのか? アメリカ人芸術家のマーク·ケルナーが今回、ザ·コンテナーで展示する作品シリーズの問いはまさにそれだ。ケルナーのアプローチは、前作に続き、皮肉っぽい分かりやすさがあり、作品を見る人に対して消費主義と資本主義の再考を促す、彼の社会政治的センスと洒落た美学が発揮されている。本展「バーコード」では過去20年間にわたって芸術作品の最高額を叩きのめしたクラシック及び現代絵画の作品を、バーコードを彷彿させる白黒の線シルエットで再構成することで、簡素で素朴な形となるまで絵の内容と表現を切り詰めている。 世界中の人々から愛されてきた有名な絵画作品たちが、現代の消費主義の象徴とも言える、見慣れすぎたバーコードと衝突するのを見ると、芸術のコモディティ化のばからしさについて改めて考えさせられる。作品は、正真正銘のケルナー流と言おう、ポスターチックで、おぼろげに再表現されており、その矛盾した価値が露呈される、ポップ·アート的な魅力が出ている。バーコードという消費主義的商業文化の言語を通じて、高尚な芸術とグローバルな資本主義が織りなす虚偽を表している。我々の生活のありとあらゆる側面に関わる消費者主義に触れながら、高級な文化と低級な文化の交点を表現している。 再構成された絵画は下塗りされたキャンバスにデジタル印刷され、全てオリジナルの作品と同じサイズで作られている。本展では次の作品を展示する予定である。レオナルド·ダヴィンチの「サルバトール·ムンディ」65.5cm x 48.7 cm、1500年頃制作。2017年にクリスティーズで450,312,500米ドルというとんでもない金額で落札された(サウジアラビアのムハンマド·ビン·サルマーン皇太子に買われたという噂がある)。より安価な作品例では、アメデオ·モディリアーニの「赤い裸婦」、60cm x 92cm、1917年制作などがある。2015年にクリスティーズで中国人コレクターの劉益謙に170,405,000米ドルで落札されている。最安価なのは、誰が見ても分かる、アンディ·ウォーホルの「ターコイズ·マリリン」101cm x 101cm、1964年制作。2007年、非公開で8000万米ドルでスティーブン·コーエンに買収されている。通常では感動の涙をもたらす十点のセレクションが全て同時に展示されるわけだが、簡素化されてディテールが欠けていても、原画が何か一目瞭然だ。 また、本展の来場者は、作品と交流することもできる。展示エントランスに設置されたQRコード(本カタログにも掲載)をスマートフォンでスキャンすれば、原画についての情報が追加して得られる他、ケルナーがデザインしたバーコード·イメージの記念品の購入案内も受けられる。バーコードのシルエットでデザインされたフェイスマスク、絵葉書、トートバックなど、芸術のコモデイティ化のばからしさに皮肉がらずに問題提起している商品が、いわゆる「一般的なコモディティ」としてお買い求めいただける。 ケルナーによれば、他の企画に集中するため作業したりしなかったりで、本展のコンセプト化は何年かかかったらしい。ケルナーは、本展で取り上げられている絵画をバーコードの他にも幅広い手法で芸術表現を追求しているので、今後ますますの展開が期待されるプロジェクトの初展として東京の皆さんに届けられるのを、ザ·コンテナーの我々はとても嬉しく思う。本展が実現した発端となった会話も、実は新型コロナウイルスの感染が拡大した直前、2020年2月にワシントンDCでケルナーとミーティングをした時のことである。イギリス系アメリカ人芸術家のナタリー·クラーク(彼女も2018年にザ·コンテナーで「イントゥ·ザ·カーブ」という体感型展示を催した)のおかげで叶った出会いだったが、彼女の紹介によってケルナーと彼の作品と出会えたのは、新たな芸術家を発見できたという私の私的な体験に留まらず、アート·コミュニティの、芸術家と芸術業界との絆を深め、創造性の繁栄を援助する役割を表している。芸術が創り始められた大昔よりコミュニティが果たしてきた重要な役割である。 ケルナーの本展における新作は、絵画とポスターチックなデザインから構成された彼の作品体から自然と発展したものである。彼は長期にわたりグラフィック·デザインやマーケティング手法に興味を持ち続けてきたわけで、意図的であるかは不明だが、政治社会に異議を唱える一つのツールとして、作品の中心的なテーマとなることが多い。例えば、ワシントンDCのカルチャー·ハウスで最近飾った屋外型展示作品「プレジャーズ·プロミス(快適さの約束)」は、長さ120フィート(約36メートル)もあるが、煙草ブランド·ニューポートの「アライブ·ウィズ·プレジャー(愉快適悦)!」というスローガンを、地域社会の階級浄化と絡めながらからかっている。ブランドの表号であるタイプフェースと緑とオレンジの二色を使愛ことで、社会の高級化を表し、ニューポート社のマーケティングの空虚さを軽蔑している。「ソラリス」や「サイン&ワンダー」など他のプロジェクトでも、著名な芸術家やソ連のプロパガンダ·ポスターなどあらゆる芸術作品の像を線形化することで、新たな芸術言語を生み出している。 ザ·コンテナーで行うこの展示は、マーク·ケルナーにとって日本で初めて行う展示である。コモディティ化や消費主義を主題に、芸術の価値について再考を促す、インタラクティブな作品シリーズの新作を、消費主義者の世界首都ともいえる東京で公開するのは、なんとも巡り合わせが良かろうことか。 Since prehistory, art has been defining humanity and culture: […]
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Monday, December 21st, 2020
The Brexshit Machine サイモン・ロバーツ Simon Roberts 23 December, 2020 – 7 March, 2021 The Brexshit Times (limited edition, 1000) Exhibition catalogue © Simon Roberts, 2020. The Brexshit Machine. LED sign, 40 x 8 x 1.6 inches. . ブレグザゲドン、ブレグザポカリクス、ブレグジレント、ブレグコーシス、ブレクスクレメント、ブレグゼノミクス、ブレグスファクター、ブレグゾーシテッド、ブレグザイエティ、ブレグザイルズ、ブレグジペイティッド、ブレグジステンシャル、ブレグジタニア、ブレグジテッド、ブレグジティアーズ、ブレグジターニティ、ブレグジテスク、ブレグジティング、ブレグジティッシュ、ブレグジタイツ、ブレグジトクシシティ、ブレグマス、ブレグゾダス、ブレグゾーシスト、ブレグスパッツ、ブレグスプロージョン、ブレグズポカリプス、ブレグシット、ブレグシットショー、ブレグシック、ブレグステンション、ブレグスターナティ、ブレグススルー、ブレグジティンクト 風土と風景の描写を行き来するサイモン・ロバーツは、地政学や文化的アイデンティティについての思索を表現する手段として、写真を選択することが多い。頓知とユーモアを交え、寓話的な作風もって人と空間との関係性を描いたブリューゲルの絵画のように、ロバーツの作風も、写真中に人を点在させるなど、絵画的構成を取ることによって奥行きを感じさせる描写法が高い評価を得ている。社会や文化はアイデンティティや帰属意識から形成されるが、ロバーツは、共通歴史、集合的記憶、共愛など、文化地理的概念が社会に与える影響について、深い関心を抱いている。 森羅万象の美しさとは有機的で不完全なもので、人に関しては癖や短所から生まれるものであるとロバーツは理解しており、彼はその見識のもと、生粋のイギリス人らしく、冗談と遊び心もって、人や社会の欠陥を巧妙に表している。ロバーツの描写は何かに対する考証なのか、ただの肖像画法なのか、その間で揺れている。時には特定の出来事を捉えているようなのだが、自然と活動的生によってしか織り成せない、人と場所とモノがぴたりと揃ったかのような、偶然な瞬間や人生のカオスを捉えた作品の方が多い気もしなくはない。 私が特に魅了されるのは、ロバーツの、自身の芸術の「民主化」への熱心である。新たなアイディアを推進するためのクラウドファンディングや、公的な議論ができるプラットフォーム構築の支援などの幅広い活動がある。それらは、物事の概念性と公共性が交錯し、愛国心とナショナリズムが再定義されるきっかけをもたらしているとともに、21世紀の社会情勢に適った新たな手段により、多様性と非協調性を祝っている。そこから生まれるコミュニティやアイデンティティ 、インクルージョンこそ、社会運動や地域性、人々の勤労と娯しみを可能にし、最終的には文化や政治を表象するものとなるのだ。 イギリスがEU(欧州連合)から離脱するまで残り数日と迫っている今、ザ・コンテナーのささやかな空間にてロバーツの「ブレグシット・マシーン」(くそなブレグジットの構造)を展示できるこのタイミングは、至高だ。緑色のLEDにモノトーンに照らされた「ブレグジット用語」は、2016年に離脱が決まった際、一部イギリス国民の間では離脱後の社会変化に対する不安が高まったことで生まれた、「Brex(ブレグ)」で始まる様々な造語である。作品はイギリスの正式な加盟が終了し、移行期間が始まった2020年1月31日を記念するために作られたが、移行期間が終了する間際、今もなお、多くの「ブレグザイエティ(ブレグジット不安)」が残存している象徴として、ザ・コンテナーにて展示することとなった。作品は、アイデンティティの自己喪失を抱える一国の様子を伝えているだけでなく、変化の瞬間を取り巻く社会議論を捉えている。 本展で使用されている語彙は「ブレグジット・レクシコン(2016-2020)」から抜粋されたもので、ロバーツによれば、「ブレグジットの過程を伝えた見出しや術語のうち、代表的だったものを5000個ほど集めてデータベース化」した編集物である。リサーチとしてロバーツによって編集され、イギリスの来たる日の離脱を考証しながら4年に渡って生み出してきた、数々の作品のベースとなってきた。本カタログでは語彙集全体を再出版することにし、新たに追加された言葉や、ロバーツによってアーカイブ化された画像も含めることとした。語彙集はアルファベット順に並べられているが、その順番は政治家や専門家、メディアが一語一句使用した際に露呈された矛盾やポピュリズム的含意、美辞麗句を批判的思考的に表すためにある。 最後になるが、この度ザ・コンテナーで主催する「ブレグシット・マシーン」はARTINTRAとのコラボレーションであり、ヴァシリキ・ツァナコウとキャサリン・ハリントンが率いる国際プロジェクトである「複雑な状態:英国EU離脱年のアート」の一環である。当プロジェクトはブレグジットに対する現代美術家の反応を考証する試みとして、30人以上の作品を世界各地で展示しているものである。 BREXAGEDDON, BREXAPOCALYPSE, […]
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Vernacular: Reflections on contemporary art Self-contained #1 (43:48 mins) Ami Clarke | Mark Kelner | Mischa Leinkauf | Suzanne Mooney | Robert Waters Facilitated and moderated by: Shai Ohayon . With the current lockdown and social distancing orders in many countries around the world, and the impending long-term restrictions that are to […]
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In search of the juncture of three coincidental sites 金子未弥 | Miya Kaneko 11 June – 26 August 2018 Opening night reception + publication launch: 11 June, 19:30 – 21:30 都市風景をナビゲーションすることは、A・Bといったニ地点間を単純移動することよりも、はるかに多くのことを思い浮かばせる。家から職場までの通勤路といった最もつまらない移動においても、記憶や連想を「まとった」私たちの主観的な解釈は、特定の場所や空間に対する私たちの観点を「飾っている」。新進気鋭の日本人アーティスト金子未弥は、その点を非常に深く理解していると言えよう。アーティストと専門家の両者として彼女は、一都市全体や特定の場所が彼女や他人にとって如何なる意味を持ち得てきたのかと何年も探求してきた。 彼女はここ数年にわたって人や空間の表現方法を画や彫刻など様々な手法を用いて研究している。彼女の取り組みは特定の空間へフォーカスしたことをきっかけに芽生え、「都市とは何からできているのか」という問いへ対する個人的な探求へと変化してきた。特に彼女の制作工程は、個々人が特定の空間を如何に捉えているのかを理解することに重点を置いている。特定の空間へ対して個々人は一体どのように関わっているのだろうか?例えば、彼女の東京は他人の東京と同じものであろうか?当然のことながらこれらの問いへ対する答えとして、都市は人生上の他の問いと同様で、個々人の記憶やアソシエーションに覆われているということである。人はそれぞれ同じ道や空間を取っても、捉え方や考え方が全く異なることがあり、それは個人的なコノテーションや人生経験が道や空間への捉え方や考え方を影響する傾向にあるからである。 このような一空間へ対する個々人の理解の差異は、金子の芸術的実践を刺激するのである。彼女は空間を体験・歴史・アソシエーションの集合体である、記憶のアーカイブとして捉えている。彼女の制作は主に都市的なイメージのある金属を用いているが、それは金属が日常生活において幅広く使用され、多能性や液体化する性質を持っているからである。つまり金子によれば、金属は都市の特質と強く結びついているのである。 コンテナーでの金子の展覧会『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、三つの作品を通じて彼女の制作の多様性を披露し、彼女と都市と地図との間の関係性の進展を強調している。最も初期の作品は2013年に作成された「東京」であるが、鉄棒から作られた、東京の巨大な立体地図である。戦後直後と現代の東京の地図などをもとに制作されており、東京の複雑な変化や進化が作品のヒントとなっている。 複雑で多層的なこの彫像は、都市の「血脈」や道路を巨大な蜘蛛の巣のように織り出しており、歴史と記憶の重みが、時間とともに物質的・心理的変化を促進させていることを表現している。彫像は分厚い鉄棒から作られているが、もろさと希薄さも同時に表現されており、作品は大都市の工業的な本質とは対照的な、歴史や記憶の儚い関係性のアレゴリーとしても成立している。 また、『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、金子の作品のうちコミュニティから発想を得た二点を展示している。一点目は本展用に制作された大地図「スケールから地図を解放せよ」であり、二点目は様々な都市の名前が彫られたアルミ製の皿のセレクションである(東京ミッドタウンにてグループ・ショーで展示済)。これらの作品は、都市のポートレートや個人のポートレートを造ろうと、多くの人々(ギャラリー来客者、ワークショップ、メール)からのインプットに依ったものである。 「都市を解剖し忘却を得よ」は都市名が彫られた数々のアルミ製の皿であるが、これらは自分にとって重要な都市や空間の地図・説明・関係性を一般人から募ったものである。集められた地図は様々な形をとっている。本物のものや写真のものもあれば、メモや個人の記憶に頼ったものもある。これらは集められた情報によってできた金子自身の理解やアソシエーションからビジュアルな表現として統合、体現されている。 金子の最も新しいプロジェクトである「透明な地図」は、人々の経験と記憶の交わりを更に一歩進めている。想像上であれ、リアルであれ、アソシエーションのリンクや重複は一般人から募った情報を通じて造られ、多様な図形の画は、実体的なコネクションや形を織られることによって完成したのである。透明な「コミュニティ」(金子は「都市」と呼んでいる)は常に変化しており、物理的には実在しないかもしれないが、共有された記憶や経験の超越したことから存在している。都市と都市のマッピング、マッピングによって完成した画は、一般の人々との交流ワークショップで造られているが、おおよそ他人同士の人間によって情報が同時に共有されて造られる「空間」は、常時変化・進化し続けるアソシエーションのリンクや何層もの複雑性が、無限のスケールや形状とともに造られていることからできたものである。 金子未弥の都市と都市のマッピングへ対する熱意は、個人的・歴史的・文化的記憶を統合させているが、これは集合的な記憶を具体化するためであり、また、空間とは、使用に慣れて頼りすぎるようになった、ナビゲーション・システムやスクリーン上のデジタルな地図の一地点よりも大きな意味を持っていることを示すためである。実に空間は、それぞれ多くの人々の経験やアソシエーションから形作られた記憶を持している。 金子未弥:2011年、多摩美術大学を卒業、工芸学学士号を取得。2013年、同大学院より修士号を取得。2017年、同大学院より博士号を取得。同年、多摩美術大学博士課程卒業制作展に出展。2016年、釜山Art […]
In dwam Risa Tsunegi 13 April – 29 June 2015 Opening night reception: 13 April, 19:30 – 21:30 Wall Dance, Risa Tsunegi, 2015. Mixed media, approx 170 x 120 x 17 cm. . 常木理早の作品は、60年代と70年代のアメリカのミニマリスト運動から大きく影響されています。 それに加え、ポスト抽象表現主義のエスセティックの影響も窺うことができます。 数多くのポスト抽象表現主義のアーティストのように、彼女の造る作品は一般的な姿を拒み、形のフィジオロジーに焦点を置きます。 彼女の作品に見る、形、重さ、重力、建物の空間を分割するような作品のあり方は、一見、アメリカ人彫刻家リッチャード・セラの作品を思い起こさせます。 しかし、彼とは違い、常木は驚きと欺瞞をテーマとします。 目で見える物が真実とは限りません。常木は、幻想を作り出す魔術師のようです。2009年の作品<ガーダー>の、重力に逆らうように空中に浮かぶ500センチの鋼のビームは、まさに魔術のようです。 この重たい鋼の柱は、あたかも動画の静止画のように時間が止まっているように見えます。常木がどうやってこの柱を時空に浮かばせたのかは、いくら見ても、分かりえないでしょう。 鋼に見える柱が実はフォームでつくられていて、コンクリートの地面に直面する角が実は地中に続く柱のサポートになっているのが、ツネギの魔法の秘密です。 同じく構造されているのが、彼女の2010年の作品<ドリップス>です。 鋼のフレームから垂れ下がるペンキの雫が、落ちる前の一瞬を永遠に止 め、保った作品です。また、この作品も<ガーダー>のように、ペンキはスポンジを使ってつくった作品です。 視聴者を惑わしていないのであれば、常木の作品は視聴者に空間の構造を尋ねています。 視聴者に新しい空間の見方を主張しているかのようです。 今回のザ・コンテインナーで展示する作品<In dwam>では、コンテナのサイズと空間を利用し、新しい空間とイルージョンをつくりま す。 インスタレーションは、<ウォール・ダンス>というミックスド・ メディアでつくられた壁と柱の構造と<アタッチメント>という天井からぶら下がる小さな彫刻の二つの作品です。 <ウォール・ダンス>(170x120x177cm)は、タイル張りの壁の中心にコンテナの天井から地面へ柱が突き刺さっている作品です。 一見すると、この作品は後ろの壁へと繋がるようであり、石膏で造られているように見えます。 しかし、よく見てみると分かるのが、壁が実は奥に向かっていくにつれカーブし、ハンドメイドの石膏製タイルで覆われた、フォームで形成された土台だということが分かります。 一見頑丈な構造も、映画の撮影現場のようにフェイクな模造でしかない幻想ということが明らかになります。 […]
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Monday, February 24th, 2014
Yu Araki 3 March – 19 May 2014 Opening night reception: 3 March, 19:30 – 21:30 Catalogue 荒木 悠はスパイである。彼は旅をし、身を隠し、発見する。あるときは周囲に溶け込み、またあるときは距離を置いて潜伏する。尾行し、撮影し、物語る。事実と歴史にフィクションと主観性を織り合わせ、文学、哲学、政治そして芸術を参照した驚くべき虚構を語り上げる。ドキュメンタリー風の情熱的な語りに満ちた彼のビデオ/フィルムは観る者たちを捕らえる罠であり、土地と次元を横断する文化的諜報活動の探訪の旅路へと彼らを送り出す。荒木の作品には常に窃視と移動の感覚が強く漂っている。パリの路上をバゲットの先端から覗き見し、韓国・大邱の駅ではじっと潜伏し、そしてベトナムではソーセージを作る。彼の作品は観る者をアイロニーとウィットたっぷりに人間を観察・体験する人類学者的なミッションへと誘う。それらの旅路は異なる国々の間の忘れられた歴史的繋がりを度々暴き出し、それらを政治的な結びつきへと調合する。あるいは、理論と文献の両方を内在する関係性を介して参照し、それらをひとつの物語へと丁寧に作り上げる。荒木が作品に用いる強い地域性を帯びた人物たち、そして彼らの習慣や規範に基づく行動や環境に対する省察からは、どこか異文化交流のような感覚を与えられることも多い。荒木は一定の基準にしたがって綿密なプランを立てるものの、その一方で偶然性や自発性の余地を残し、場所や状況そのものもまた語り手たることを可能にしている。おそらく潜在意識において、荒木の作品ではピーナッツ、貝、オリーブオイルにいたる様々な食物に注意を引かれることが多い。それは文化的なメタファーであると同時に政治的なカードでもあり、ステレオタイプ、文化的遺産、地政学、歴史から一本の縦糸が紡ぎ出すのだ。 作品において荒木はカメラ、自己、そして外界の関係性を熟考し、内と外の境界を探索しながら、様々な役柄の間をあざやかに推移する。いくつかの作品では彼はカメラを口の中に隠し、さらには体内に埋め込むことで、彼自身がカメラとなる。またあるときは荒木は距離を置いて撮影を行い、観客は荒木と共に身を潜め、彼の目を通じて対象をスパイし、静かに観察する。このインサイダーとアウトサイダーの役割転換が際立たせるのが、人間心理への彼の興味であり、社会の周縁に留まる彼の能力である。もっとも、もし社会の状況がそれを許すならば社会に溶け込むこともある。おそらくそれは、私たちが何処に住み、何を信じ、何をして、何を食べていようと似たもの同士であるということの寓話あるいは暗示なのだ。 このインサイダーとアウトサイダーの相互作用はThe Containerで展示される「ANGELO LIVES」(2014)において最も明らかである。このサイト・スペシフィックなインスタレーションは、荒木が2013年夏にスペインのサンタンデールで行ったレジデンスから着想を得ている。スペイン・イタリア・日本を舞台に歴史的なイメージや絵画や地図なども含めて撮影されたビデオのモンタージュからなる映像作品は、観客を連想と暗示の世界へとゆっくりと誘い込むコラージュである。外への展望と内なる瞑想が入り混じったカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『雲海の上の旅人』(1818)のタブローを参照して始まる映像は、絡み合う寓話の迷宮へとすぐさま出発する。 サンタンデールで制作され展示された元の映像作品は、サンタンデールの熟練の探検家Vital Alsar(1933生)のテキスト、そして17世紀にポルトガルからキリスト教弾圧期の江戸時代の日本に渡った若い宣教師セバスチャン・ロドリゴ(Sebastiao Rodrigues)の物語を描いた遠藤周作の小説「沈黙」(1966)に倣い、九つの章で構成されている。この映像作品では宗教地政学的なモチーフと「新世界」におけるオリーブの普及の間にフィクション的な相関性が築かれている。 「ANGELO LIVES」はこの物語により一層の抽象化を施して再探訪し、おそらくはフィクションから超現実への出発となるものである。映像を導くのはアンジロウ、あるいは彼の幽霊のナレーションである。アンジロウは、イエスズ会の日本における宣教活動の記録が示すところによれば、16世紀に殺人の罪でマレーシアのマラッカに送られ、その後は通訳として聖フランシス・ザビエルと二人の修道士と共に日本に戻ったとされている。 個人的解釈という概念は荒木の中心的な関心であり、この新しい映像作品の中心をなしている。疎外された存在であり一見して情緒不安定でもありながら通訳という行為の繊細さをすべて理解しているアンジロウは、ナレーターとして適切な選択だと考えられる。仏教徒に対して「GOD」を「大日」(仏教における神の一人)と訳するよう薦めた彼の提言は、ザビエルの「デウス(Zeus)」に取って代わられ、仏僧たちからの敵意を生み出す結果となった。 映像作品で用いられる音声は、明治維新後19世紀半ばに宗教の自由が再び確立されるまで弾圧を受け続けた「隠れキリシタン」と呼ばれる日本のキリスト教信者たちの抄本の朗読を含んでいる。文字の資料を残さないための密かな努力として、隠れキリシタンたちはラテン語、スペイン語、ポルトガル語、日本語で祈りの言葉を口頭で交し合い、それは時を経るにつれて「伝言ゲーム」の中で意味不明なものとなっていく。にもかかわらず、それはスペイン語と思われる言葉に似た響きを持ち、作品に謎めいた超現実的な雰囲気を与えている。また、隠れキリシタンたちがやはり弾圧を避ける目的で祈りの言葉を仏教の読経のように唱えた「オラショ (Oratio)」も作品に用いられており、その美しく切望に満ちた響きは逆再生されながらこの作品に神秘、切望、秘密、孤独という一層の美を与えている。 映像作品の中核をなすのはオリーブとオリーブオイルへのこだわりである。近作の荒木はアジア・オーストラリア・アメリカへのキリスト教の普及とオリーブオイルの輸出の間に自ら見い出した相関性を以前ほど押し出していないものの、オリーブの木と実はなおも長きに渡り確立されてきた文化・歴史・宗教の関係性を存分に用いるための象徴的な役割を与えられている。また、「ANGELO LIVES」で文化的アイデンティティや遺産を示すものとしての用いられるオリーブの木と実は、パレスチナの作家Raafat Hattabが切望の表現と民族性の象徴としてオリーブの木を用いた映像作品「Bidun Enwan, Untitled」 (2009) を想起させる。 カメラ、アーティスト、そして観客の関係性に対する荒木の関心は、実験性と視覚的祝祭性につながる。彼が以前に「entrevoir」(2013)でも行った口の中へカメラを隠す行為は、理論や概念を表現するためだけに用いられているのではなく、むしろ映画的な効果をもたらす好機として用いられている。露出オーバーの映像と口の形に切り取られたフレーミングは抽象性と超現実性の素晴らしい混合物となり、浜辺の男たち、水、そしてどこにでも現れるオリーブの実へと美しく推移しながら、(The Containerの形状によって定められた)矩形の次元の中であちらこちらへ踊り転げるオリーブを映す。 なによりも「ANGELO LIVES」は、アーティストが周囲の環境へ向ける眼差しとアーティスト自らが作り出した連想へのこだわり、すなわち、ひとりのアーティストがいかにして作品を制作するかの実例を示している (それはおそらく、スタジオで作業中のアーティストを観るシーンで最も際立っている)。スペインのバルと聖戦、消滅した幽霊たち、忘れられた宗教、文化的な歴史―彼の連想は視覚、思想、音響の謎めいた収集物からなる絡まった網の目へと私たちを連れ出し、宗教を旅と発見に結びつけていく。驚くまでもなく、映像作品の幕を下ろすのはまたしても口であり、編集のトリックによってそれは目へと変形し、観客を見つめ返す仮面のようなものとなり、瞳孔として視界の中央に再び戻ってきたオリーブはちらつきとまばたきを織り交ぜながら陽光の中で輝いている。 Yu Araki is a spy. He travels, he hides, he discovers; […]
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