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Mark Kelner: Barcodes

  Barcodes   マーク・ケルナー Mark Kelner 12 April – 28 June, 2021     © Mark Kelner, 2021. Turquoise Marylin, digital print on primed canvas, 101 cm x 101 cm. . 芸術は先史時代の頃から人間とその文化を定義してきた。私たちは、壁画を見ては古代人の生き様や社会の在り方について知り、ギリシャ建築や遺物を見ては古代ギリシャ帝国の人々の生活や価値観について、ルネッサンス絵画を見ては当時の規範、技術、流行について学ぶ。芸術はつまり、人間の「他の生き物」からの差別化と、歴史文化の定義を可能にするものであり、人類の姿を映す鏡であり続けてきたのだ。これこそ芸術の強みであり、もっと言ってしまえば、その価値なのである。 20世紀がもたらした技術の進歩と豊かさや現代についての思想の変化は、我々の芸術の見方と価値づけに大きな変化を与えた。どこにでもオークション·ハウスが立つようになり、国際アート·フェアでも同様、一つの作品で数百万ドルもの売上が出せる「グローバルなアート市場」が広まった。芸術はあちこちでコモディティ化するようになり、作品所有者の社会的地位と権力を象徴するものに転化した。 当然、これらの現象は、従来の芸術の存在意義とは反している。芸術は、芸術家が文化を定義し、コミュニケーションのために使うツールであって、大金持ちが富とステータスを誇示するために対象化されるだけのものではない。どんなに美しくて崇高な作品でも、果たして何億ドルもの価値があるのだろうか?そしてあらゆる作品の制作者たちが今日生きていたら、我々現代人が消費主義的な価値を加えているのを見て、どう思うことだろうか。もっとも、ある作品の文化的価値がそんなに高いのであれば、どこかの金持ちの個人宅で公衆から遥か遠くに置かれてしまうより、美術館のように、パブリックドメインの場で鑑賞され、楽しまれるべきなのではないのか? アメリカ人芸術家のマーク·ケルナーが今回、ザ·コンテナーで展示する作品シリーズの問いはまさにそれだ。ケルナーのアプローチは、前作に続き、皮肉っぽい分かりやすさがあり、作品を見る人に対して消費主義と資本主義の再考を促す、彼の社会政治的センスと洒落た美学が発揮されている。本展「バーコード」では過去20年間にわたって芸術作品の最高額を叩きのめしたクラシック及び現代絵画の作品を、バーコードを彷彿させる白黒の線シルエットで再構成することで、簡素で素朴な形となるまで絵の内容と表現を切り詰めている。 世界中の人々から愛されてきた有名な絵画作品たちが、現代の消費主義の象徴とも言える、見慣れすぎたバーコードと衝突するのを見ると、芸術のコモディティ化のばからしさについて改めて考えさせられる。作品は、正真正銘のケルナー流と言おう、ポスターチックで、おぼろげに再表現されており、その矛盾した価値が露呈される、ポップ·アート的な魅力が出ている。バーコードという消費主義的商業文化の言語を通じて、高尚な芸術とグローバルな資本主義が織りなす虚偽を表している。我々の生活のありとあらゆる側面に関わる消費者主義に触れながら、高級な文化と低級な文化の交点を表現している。 再構成された絵画は下塗りされたキャンバスにデジタル印刷され、全てオリジナルの作品と同じサイズで作られている。本展では次の作品を展示する予定である。レオナルド·ダヴィンチの「サルバトール·ムンディ」65.5cm x 48.7 cm、1500年頃制作。2017年にクリスティーズで450,312,500米ドルというとんでもない金額で落札された(サウジアラビアのムハンマド·ビン·サルマーン皇太子に買われたという噂がある)。より安価な作品例では、アメデオ·モディリアーニの「赤い裸婦」、60cm x 92cm、1917年制作などがある。2015年にクリスティーズで中国人コレクターの劉益謙に170,405,000米ドルで落札されている。最安価なのは、誰が見ても分かる、アンディ·ウォーホルの「ターコイズ·マリリン」101cm x 101cm、1964年制作。2007年、非公開で8000万米ドルでスティーブン·コーエンに買収されている。通常では感動の涙をもたらす十点のセレクションが全て同時に展示されるわけだが、簡素化されてディテールが欠けていても、原画が何か一目瞭然だ。 また、本展の来場者は、作品と交流することもできる。展示エントランスに設置されたQRコード(本カタログにも掲載)をスマートフォンでスキャンすれば、原画についての情報が追加して得られる他、ケルナーがデザインしたバーコード·イメージの記念品の購入案内も受けられる。バーコードのシルエットでデザインされたフェイスマスク、絵葉書、トートバックなど、芸術のコモデイティ化のばからしさに皮肉がらずに問題提起している商品が、いわゆる「一般的なコモディティ」としてお買い求めいただける。 ケルナーによれば、他の企画に集中するため作業したりしなかったりで、本展のコンセプト化は何年かかかったらしい。ケルナーは、本展で取り上げられている絵画をバーコードの他にも幅広い手法で芸術表現を追求しているので、今後ますますの展開が期待されるプロジェクトの初展として東京の皆さんに届けられるのを、ザ·コンテナーの我々はとても嬉しく思う。本展が実現した発端となった会話も、実は新型コロナウイルスの感染が拡大した直前、2020年2月にワシントンDCでケルナーとミーティングをした時のことである。イギリス系アメリカ人芸術家のナタリー·クラーク(彼女も2018年にザ·コンテナーで「イントゥ·ザ·カーブ」という体感型展示を催した)のおかげで叶った出会いだったが、彼女の紹介によってケルナーと彼の作品と出会えたのは、新たな芸術家を発見できたという私の私的な体験に留まらず、アート·コミュニティの、芸術家と芸術業界との絆を深め、創造性の繁栄を援助する役割を表している。芸術が創り始められた大昔よりコミュニティが果たしてきた重要な役割である。 ケルナーの本展における新作は、絵画とポスターチックなデザインから構成された彼の作品体から自然と発展したものである。彼は長期にわたりグラフィック·デザインやマーケティング手法に興味を持ち続けてきたわけで、意図的であるかは不明だが、政治社会に異議を唱える一つのツールとして、作品の中心的なテーマとなることが多い。例えば、ワシントンDCのカルチャー·ハウスで最近飾った屋外型展示作品「プレジャーズ·プロミス(快適さの約束)」は、長さ120フィート(約36メートル)もあるが、煙草ブランド·ニューポートの「アライブ·ウィズ·プレジャー(愉快適悦)!」というスローガンを、地域社会の階級浄化と絡めながらからかっている。ブランドの表号であるタイプフェースと緑とオレンジの二色を使愛ことで、社会の高級化を表し、ニューポート社のマーケティングの空虚さを軽蔑している。「ソラリス」や「サイン&ワンダー」など他のプロジェクトでも、著名な芸術家やソ連のプロパガンダ·ポスターなどあらゆる芸術作品の像を線形化することで、新たな芸術言語を生み出している。 ザ·コンテナーで行うこの展示は、マーク·ケルナーにとって日本で初めて行う展示である。コモディティ化や消費主義を主題に、芸術の価値について再考を促す、インタラクティブな作品シリーズの新作を、消費主義者の世界首都ともいえる東京で公開するのは、なんとも巡り合わせが良かろうことか。 Since prehistory, art has been defining humanity and culture: […]

Simon Roberts: The Brexshit Machine

    The Brexshit Machine サイモン・ロバーツ Simon Roberts   23 December, 2020 – 7 March, 2021   The Brexshit Times (limited edition, 1000) Exhibition catalogue     © Simon Roberts, 2020. The Brexshit Machine. LED sign, 40 x 8 x 1.6 inches. . ブレグザゲドン、ブレグザポカリクス、ブレグジレント、ブレグコーシス、ブレクスクレメント、ブレグゼノミクス、ブレグスファクター、ブレグゾーシテッド、ブレグザイエティ、ブレグザイルズ、ブレグジペイティッド、ブレグジステンシャル、ブレグジタニア、ブレグジテッド、ブレグジティアーズ、ブレグジターニティ、ブレグジテスク、ブレグジティング、ブレグジティッシュ、ブレグジタイツ、ブレグジトクシシティ、ブレグマス、ブレグゾダス、ブレグゾーシスト、ブレグスパッツ、ブレグスプロージョン、ブレグズポカリプス、ブレグシット、ブレグシットショー、ブレグシック、ブレグステンション、ブレグスターナティ、ブレグススルー、ブレグジティンクト   風土と風景の描写を行き来するサイモン・ロバーツは、地政学や文化的アイデンティティについての思索を表現する手段として、写真を選択することが多い。頓知とユーモアを交え、寓話的な作風もって人と空間との関係性を描いたブリューゲルの絵画のように、ロバーツの作風も、写真中に人を点在させるなど、絵画的構成を取ることによって奥行きを感じさせる描写法が高い評価を得ている。社会や文化はアイデンティティや帰属意識から形成されるが、ロバーツは、共通歴史、集合的記憶、共愛など、文化地理的概念が社会に与える影響について、深い関心を抱いている。 森羅万象の美しさとは有機的で不完全なもので、人に関しては癖や短所から生まれるものであるとロバーツは理解しており、彼はその見識のもと、生粋のイギリス人らしく、冗談と遊び心もって、人や社会の欠陥を巧妙に表している。ロバーツの描写は何かに対する考証なのか、ただの肖像画法なのか、その間で揺れている。時には特定の出来事を捉えているようなのだが、自然と活動的生によってしか織り成せない、人と場所とモノがぴたりと揃ったかのような、偶然な瞬間や人生のカオスを捉えた作品の方が多い気もしなくはない。 私が特に魅了されるのは、ロバーツの、自身の芸術の「民主化」への熱心である。新たなアイディアを推進するためのクラウドファンディングや、公的な議論ができるプラットフォーム構築の支援などの幅広い活動がある。それらは、物事の概念性と公共性が交錯し、愛国心とナショナリズムが再定義されるきっかけをもたらしているとともに、21世紀の社会情勢に適った新たな手段により、多様性と非協調性を祝っている。そこから生まれるコミュニティやアイデンティティ 、インクルージョンこそ、社会運動や地域性、人々の勤労と娯しみを可能にし、最終的には文化や政治を表象するものとなるのだ。 イギリスがEU(欧州連合)から離脱するまで残り数日と迫っている今、ザ・コンテナーのささやかな空間にてロバーツの「ブレグシット・マシーン」(くそなブレグジットの構造)を展示できるこのタイミングは、至高だ。緑色のLEDにモノトーンに照らされた「ブレグジット用語」は、2016年に離脱が決まった際、一部イギリス国民の間では離脱後の社会変化に対する不安が高まったことで生まれた、「Brex(ブレグ)」で始まる様々な造語である。作品はイギリスの正式な加盟が終了し、移行期間が始まった2020年1月31日を記念するために作られたが、移行期間が終了する間際、今もなお、多くの「ブレグザイエティ(ブレグジット不安)」が残存している象徴として、ザ・コンテナーにて展示することとなった。作品は、アイデンティティの自己喪失を抱える一国の様子を伝えているだけでなく、変化の瞬間を取り巻く社会議論を捉えている。 本展で使用されている語彙は「ブレグジット・レクシコン(2016-2020)」から抜粋されたもので、ロバーツによれば、「ブレグジットの過程を伝えた見出しや術語のうち、代表的だったものを5000個ほど集めてデータベース化」した編集物である。リサーチとしてロバーツによって編集され、イギリスの来たる日の離脱を考証しながら4年に渡って生み出してきた、数々の作品のベースとなってきた。本カタログでは語彙集全体を再出版することにし、新たに追加された言葉や、ロバーツによってアーカイブ化された画像も含めることとした。語彙集はアルファベット順に並べられているが、その順番は政治家や専門家、メディアが一語一句使用した際に露呈された矛盾やポピュリズム的含意、美辞麗句を批判的思考的に表すためにある。   最後になるが、この度ザ・コンテナーで主催する「ブレグシット・マシーン」はARTINTRAとのコラボレーションであり、ヴァシリキ・ツァナコウとキャサリン・ハリントンが率いる国際プロジェクトである「複雑な状態:英国EU離脱年のアート」の一環である。当プロジェクトはブレグジットに対する現代美術家の反応を考証する試みとして、30人以上の作品を世界各地で展示しているものである。 BREXAGEDDON, BREXAPOCALYPSE, […]

Vernacular: Self-contained

Vernacular: Reflections on contemporary art   Self-contained #1 (43:48 mins)   Ami Clarke  |  Mark Kelner  |  Mischa Leinkauf  |  Suzanne Mooney  |  Robert Waters  Facilitated and moderated by: Shai Ohayon     . With the current lockdown and social distancing orders in many countries around the world, and the impending long-term restrictions that are to […]

AIAARG: What If AI Composed for Mr. S?

What If AI Composed for Mr. S?  S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら   Artificial Intelligence Art and Aesthetics Research Group (AIAARG) 人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)    22 July – 7 October, 2019   Opening night reception with + publication launch: 22 July , 19:30 – 21:30 Publication   Copy of the instructions for Symphony No.1 “Hiroshima”, written by Mr. Samuragochi for Mr. […]

Risa Tsunegi: Causality and synchronicity

Causality and synchronicity Risa Tsunegi  |  常木理早   4 February – 1 April 2019   Opening night reception with + publication launch: 4 February , 19:30 – 21:30 Bubbly reception by Jacob’s Creek   How are we to recognize acausal combinations of events, since it is obviously impossible to examine all chance happenings for their […]

In search of the juncture of three coincidental sites

In search of the juncture of three coincidental sites 金子未弥  |  Miya Kaneko   11 June – 26 August 2018 Opening night reception + publication launch: 11 June, 19:30 – 21:30       都市風景をナビゲーションすることは、A・Bといったニ地点間を単純移動することよりも、はるかに多くのことを思い浮かばせる。家から職場までの通勤路といった最もつまらない移動においても、記憶や連想を「まとった」私たちの主観的な解釈は、特定の場所や空間に対する私たちの観点を「飾っている」。新進気鋭の日本人アーティスト金子未弥は、その点を非常に深く理解していると言えよう。アーティストと専門家の両者として彼女は、一都市全体や特定の場所が彼女や他人にとって如何なる意味を持ち得てきたのかと何年も探求してきた。  彼女はここ数年にわたって人や空間の表現方法を画や彫刻など様々な手法を用いて研究している。彼女の取り組みは特定の空間へフォーカスしたことをきっかけに芽生え、「都市とは何からできているのか」という問いへ対する個人的な探求へと変化してきた。特に彼女の制作工程は、個々人が特定の空間を如何に捉えているのかを理解することに重点を置いている。特定の空間へ対して個々人は一体どのように関わっているのだろうか?例えば、彼女の東京は他人の東京と同じものであろうか?当然のことながらこれらの問いへ対する答えとして、都市は人生上の他の問いと同様で、個々人の記憶やアソシエーションに覆われているということである。人はそれぞれ同じ道や空間を取っても、捉え方や考え方が全く異なることがあり、それは個人的なコノテーションや人生経験が道や空間への捉え方や考え方を影響する傾向にあるからである。 このような一空間へ対する個々人の理解の差異は、金子の芸術的実践を刺激するのである。彼女は空間を体験・歴史・アソシエーションの集合体である、記憶のアーカイブとして捉えている。彼女の制作は主に都市的なイメージのある金属を用いているが、それは金属が日常生活において幅広く使用され、多能性や液体化する性質を持っているからである。つまり金子によれば、金属は都市の特質と強く結びついているのである。 コンテナーでの金子の展覧会『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、三つの作品を通じて彼女の制作の多様性を披露し、彼女と都市と地図との間の関係性の進展を強調している。最も初期の作品は2013年に作成された「東京」であるが、鉄棒から作られた、東京の巨大な立体地図である。戦後直後と現代の東京の地図などをもとに制作されており、東京の複雑な変化や進化が作品のヒントとなっている。 複雑で多層的なこの彫像は、都市の「血脈」や道路を巨大な蜘蛛の巣のように織り出しており、歴史と記憶の重みが、時間とともに物質的・心理的変化を促進させていることを表現している。彫像は分厚い鉄棒から作られているが、もろさと希薄さも同時に表現されており、作品は大都市の工業的な本質とは対照的な、歴史や記憶の儚い関係性のアレゴリーとしても成立している。 また、『同時発生した三空間の接合点を求めて』は、金子の作品のうちコミュニティから発想を得た二点を展示している。一点目は本展用に制作された大地図「スケールから地図を解放せよ」であり、二点目は様々な都市の名前が彫られたアルミ製の皿のセレクションである(東京ミッドタウンにてグループ・ショーで展示済)。これらの作品は、都市のポートレートや個人のポートレートを造ろうと、多くの人々(ギャラリー来客者、ワークショップ、メール)からのインプットに依ったものである。 「都市を解剖し忘却を得よ」は都市名が彫られた数々のアルミ製の皿であるが、これらは自分にとって重要な都市や空間の地図・説明・関係性を一般人から募ったものである。集められた地図は様々な形をとっている。本物のものや写真のものもあれば、メモや個人の記憶に頼ったものもある。これらは集められた情報によってできた金子自身の理解やアソシエーションからビジュアルな表現として統合、体現されている。                        金子の最も新しいプロジェクトである「透明な地図」は、人々の経験と記憶の交わりを更に一歩進めている。想像上であれ、リアルであれ、アソシエーションのリンクや重複は一般人から募った情報を通じて造られ、多様な図形の画は、実体的なコネクションや形を織られることによって完成したのである。透明な「コミュニティ」(金子は「都市」と呼んでいる)は常に変化しており、物理的には実在しないかもしれないが、共有された記憶や経験の超越したことから存在している。都市と都市のマッピング、マッピングによって完成した画は、一般の人々との交流ワークショップで造られているが、おおよそ他人同士の人間によって情報が同時に共有されて造られる「空間」は、常時変化・進化し続けるアソシエーションのリンクや何層もの複雑性が、無限のスケールや形状とともに造られていることからできたものである。 金子未弥の都市と都市のマッピングへ対する熱意は、個人的・歴史的・文化的記憶を統合させているが、これは集合的な記憶を具体化するためであり、また、空間とは、使用に慣れて頼りすぎるようになった、ナビゲーション・システムやスクリーン上のデジタルな地図の一地点よりも大きな意味を持っていることを示すためである。実に空間は、それぞれ多くの人々の経験やアソシエーションから形作られた記憶を持している。   金子未弥:2011年、多摩美術大学を卒業、工芸学学士号を取得。2013年、同大学院より修士号を取得。2017年、同大学院より博士号を取得。同年、多摩美術大学博士課程卒業制作展に出展。2016年、釜山Art […]

Even a man who is pure in heart

Even a man who is pure in heart Jack McLean   12 March – 27 May 2018   Opening night reception: 12 March, 19:30 – 21:30 Reception includes a live performance by Jack McLean as Dr. Donald Death with Dominic Skelton     トリカブトの花が咲き 秋の月が輝くとき どんなに善良な心を持つ男も狼男になる。  . ユニバーサルスタジオ『狼男』(1941)より . . どんなに善良な心を持つ男でも、ジャック・マクレーンの描く絵にはむしばまれそうになるかもしれません。病的で流動的な世界に引き寄せられ、そこではハイヒールを履く男が猫に変身し、目が飛び出た少年は痩せた足の髭男に変態します。マクレーンの一連の新作では、サイケデリックなドラッグ体験を思わせるような、ひどく奇妙で無意味でありながらも意味をなす、ドライなユーモアとウィットに富んだ社会論評を特徴とする彼のシュールな世界にゆっくりと入り込むことになるでしょう。 . マクレーンの非常に比喩的で叙事詩的な大規模な風景画とは異なり、これらの紙やキャンバス上の小さな絵は、多くの人物や物が認識できるのにもかかわらず、抽象的なものです。ビオモーフィズム、生物を連想させる形態や幻想的なイメージは、ジョアン・ミロやジャン・アルプのようなシュールレアリスム後期の抽象的な作品を思い出させます。これらの絵画は記憶や主観的な知覚によって引き起こされた幻覚の状態を表しているようであり、マクレーンはそれらを支配する無敗の主権者です。源が何であれ、彼の構想は空間と間隔の優れたデザインのセンスによって組み立てられています。マクレーンは、オートマティズム(自動記述)や意識の流れのような抽象的なシュールレアリスムのテクニックを借りて、ルールがないファンタジーの環境を作り出しています。 . 今回の作品は任意の方向から見ることが可能である複雑な組み立てであり、液体のような流動性を持ちます。悪夢のような絵の隣には、奇妙で愚かな人物がいたり、お互いが影響し合って、紙やキャンバスの境界を超え、無限に見える小さな世界を形成します。これらの絵は大胆で、子供が描く絵のような印象を与え、強いヴィジュアル的プレイやだまし絵も潜んでいます。ネガティブスペイス(対象物の周りにある空間)が、ポジティブスペース(メインの空間)になり、一見すべての隅が異なる方向から見た場合、別のキャラクターのディテールになります。すべてのドローイングはモノクロで、ほとんどが白黒ですが、いくつかは大胆で子供が使うような色で不条理を増しています。 […]

Surrogate Structures

Surrogate Structures Sam Stocker 6 November 2017 – 22 January 2018   Opening night reception + launch of publication: 6 November, 19:30 – 21:30 Reception includes live performances by Sam Stocker, Aquiles Hadjis,                                             […]

A Blot on the Landscape

A Blot on the Landscape   片岡純也 / 岩竹 理恵 Junya Kataoka / Rie Iwatake 29 May – 3 July, 2017   Opening night reception + launch of publication: 29 May, 19:30 – 21:30 Publication (catalogue)     若き日本人アーティストデュオの岩竹理恵と片岡純也が作り出す世界は曖昧さに 満ちています。それらはシンプルなかたちだが独特な視点で注意深く入念に作り込まれて います。彼らのインスタレーション作品に触れたとたん、彼らの独特な解釈や連想にあふ れた新しい世界へと誘われます。ふたりの素晴らしい才能は日常的な物を再解釈しそれら を理解するための新しい方法を作ることです。 岩竹と片岡によるシンプルな技術と装置の魅力はメディア・アーティストとして 世界的に評価されましたが、彼らは最先端のテクノロジーを使うことには興味がありませ ん。彼らの取り組み方は謙虚で抒情的であり、電球・紙・地図・ポストカード・セロテー プ等の身の回りにありふれた物の再考察をし、それらに新しい文脈をもたせます。彼らの インスタレーション作品は回り続けている物が多いが、それらは機械的な作品にもかかわ らず有機的なかたちを留めようとしています。平面作品やミクストメディアの作品では他 に比べることのできない彼らの独特な雰囲気を漂わせています。岩竹と片岡はアーティス トというよりも視覚的詩人といえるでしょう。 ふたりのインスタレーション作品を見ていると、入念に組み合わされた装置とイ メージの関係に驚きます。丁寧に作られたイメージの細部には、伝統的な日本美術に特有 の緻密で繊細で潔いシンプルさが見られます。優雅で細やかな感受性に響く作品は三次元 の視覚的な詩を作り出しています。彼らは日常的な物を注意深く観察しそれぞれの特徴や […]

Brave Men of the Asura

Brave Men of the Asura Yuta Hoshi   16 November, 2015 – 31 January, 2016 Opening night reception: 16 November, 19:30 – 21:30   .  © Yuta Hoshi, Untitled, 2015. Inkjet print, size variable. . 2010年の冬、東京の中目黒にあるBrossヘアサロンの中に設置されている、建造された空きコンテナについて興奮して語る友達から電話がきた。「凄く気に入ると思うよ。」と言う。勿論、次の週にその気に入るはずである謎のコンテナを見に行き、そしてBrossヘアサロンのオーナーホシユウタ氏に出会った。私はコンテナに惚れ込み、ヘアサロン内の彼の建てたコンテナと同様に、面白くて興味深いホシ氏の気楽で想像的な人格に魅かれた。その後は勿論、歴史となる − 少々の説得の後にホシ氏は、サロンへのインテリアデザインの一部として彼自身でデザインし建てた空きコンテナにて、私にギャラリーを開設させてくれると承諾した。その偶然の出会いがThe Containerと2011年3月の初回展覧会の誕生を記した。 約5年後に、ホシユウタ氏とのコラボレーションは、それぞれ興味のある事柄やコンテンポラリーアートを好む共通した理解と友人関係へと発展した。時間と共に私はホシ氏が素晴らしいヘアスタイリストだけではなく、彼自身の上でアーティストである事が分かっていった。髪を切らない時、彼はサロンの裏で人像を彫刻し、絵画や、服飾デザインや、写真や、新しいインテリアデザインのアイディアを構想する。実際に、サロンその物のデザインから、周りに散りばめて置かれている工芸品、そして空間を飾るポスターまでの、サロン内で目に入る全ての物は彼の手による結晶だ。 ホシ氏はアーティストとしての教育を受けてはいないが、アート制作無くしてはアートが彼の人生その物である為に人生が成り立たないという、真のアーティストとしての本質の精神を包括する。私はキューレーターとして、いつも「アウトサイダー」アートというアカデミアや美術史、そして流行りに縛られない純粋な形のアートに興味がある。抑え込む評論家や理論家を中心とするアーティスト活動とは正反対な、「アート制作」の為に創られるアート。ホシ氏と私は数年前からThe Containerで彼自身の作品を展示する機会について話し合っており、彼のインスタレーションを我々のスペースで展示する事を嬉しく思っている。 Brave Men of the Asura(阿修羅の勇敢な男達)はThe Containerを伝統的な日本の寺に塗り替えるというミクストメディアインスタレーションである。このインスタレーションの焦点は、ヒンドゥー教神話の神の阿修羅から発想を得た木像彫刻「デミゴッド(半神)」。人像は6本の腕を持ち、ホシ氏が数年前に彼自身の体を彩る為に彫ったという、伝統的な日本刺青で飾られている。それゆえ、ホシ氏とこの彫刻は、ホシ氏を神格像と見せる反転的な試みによるセルフポートレート制作の為に、同じ模様で印されている。この寺自体は、強い日本伝統的な宗教図像学の原物と現存物そして新しく創られたオブジェクトによって謎に包まれつつも、宗教や宗教的団体に属さない寺 — 個人的な祈りや瞑想への精神的な場所と環境を作ろうとしている。 黒と白の抽象的なデザイン、稲妻又は混沌の追憶を意味する、彫刻背後に投映されたビデオプロジェクションは人生の始まりを現しており、神の感覚を深めて精神的経験を昂める。 当展覧会のタイミングは祭日時期や光と冬の祝いと合わせて企画された。そして当展覧会は日本暦で最も大切な、家族と過ごし祈りや内省をする行事の新年に重なるまで開催される。ホシ氏とインスタレーション制作を疲労無く手伝う熱心なサロンスタッフである「助手軍」は、自己反省の空間であるが全体的に人間性の本質の熟考への場を創り出した。 展覧会へのタイトルBrave Men of […]

Love Me, Bomb Me

Pedro Inoue 9 June – 17 August 2014   Opening night reception: 9 June, 19:30 – 21:30 革命はテレビ放映されないだろうが、ネット上では必ずや公開されることだろう。それはハッシュタグ、フェイスブック、ツイッターなどを経由して、ウイルス感染症のように蔓延する—国境や海を超え、政府を倒し、金融機関を揺るがし、世界秩序を塗り替える。中東の政治勢力の崩壊を伴ったアラブの春、イギリス・ベネズエラ・メキシコ・リマ・スペインの暴動、ニューヨークのウォール街・イスタンブール・アテネ・サンパウロで行われた反大企業と反権力層の傾向を持つデモンストレーションを伴った「占拠運動」など、ここ10年で多くの変化が見られた。ソーシャルメディア・インターネットミーム・スマートフォンアプリ、アサンジ・マニング・スノーデンなどの内部告発者の公表、政治的ハッカーによるサイバーテロ—これらが空気中に漂わせるのは変化の匂いである。ペドロ・イノウエは静かに身を潜めながら、この匂いを肺一杯に吸い込んでいた。 ペドロ・イノウエは長い間待っていた—政治家、大企業、軍隊、金のモチーフを頻繁に使用した社会政治的に対して明敏なグラフィックデザインを通して、噂を広め社会変化を呼びかけながら。 ブラジル出身のペドロ・イノウエは、商業デザインからアート作品まで幅広い制作を手がけながら、革命をゆっくりと企ててきた。韓国、日本、フランス、イギリスでの展示経験を有する彼は、デヴィッド・ボウイ、ダミアン・ハースト、坂本龍一などともコラボレーションをしている。またここ数年は、社会政治雑誌『アドバスターズ』のクリエイティブディレクターとしても活動している。商業的であれ芸術的であれ、彼の作品には全て、私たちが作り出した世界に対する容赦ない批判を見出すことができる。 例えば彼の素晴らしく繊細な「曼荼羅」には、目の錯覚を引き起こすような瞑想的で複雑な曼荼羅の模様が、幾百もの企業ロゴで構成されたデジタルデザインで施され、「恐怖万歳」、「軍隊&金融」、「最終セール」など機知に富んだタイトルがつけられている。曼荼羅を遠くから見ると、紙幣に印刷されている複雑な模様との関連性が思い浮かび、イメージの催眠術効果に不安と吐き気が催される。 イノウエの、幾百もの(時には幾千もの)バラバラなイメージをコラージュして複雑にまとめたデザインを生み出すグラフィック能力、そして一般に広く認識されるありふれた象徴や記号の語彙を美化する能力には、感嘆するばかりである。また身近な作品を試みた、彼のデザイン包装紙のシリーズも興味深い。美観性の高い豊富な模様を使い、サッダーム・フセイン(サッダーム)、シェル石油のロゴ(シェル)、飛行機や武器(恐怖)が描写されている。作品に近寄ると、初めてその不健全さ、隠れたサブリミナルメッセージ、皮肉が露になる。 イノウエの作品の本題のひとつとして、アーティストとお金、商業的な仕事と芸術な仕事との関係が挙げられる。過去の作品にはこの矛盾を処理しようと、高価な過程を以て限定版プリントを制作し、ランバダもしくはチバクロームを使い、アクリルとアルミニウム額を取り付けたものがある。これには、お金が飛び交う「安価な」日常から、アーティストとしての「純粋な」ビジョンを切り離す意図があった。これは完成した作品に磨きをかけるイノウエの関心、そして彼の現代美術界に対する考えにも呼応する。 東京ワンダーサイトのレジデントとして東京に滞在した際、イノウエは自分が、面白いと思っことや正しい道よりも、作品に「価値を付加する」というコンセプトに誘導されていることに気づいた。この発見により、作品を最安で制作する方法を追い求めた新たな作品シリーズの制作が促された。60年代70年代イタリアのアルテ・ポーヴェラの芸術家のように、イノウエは良質と低質の境を曖昧にし、良質な作品が安価な制作技術などの「低い」ものとは反対であるという相互関係に抵抗した考えを表した。 今回イノウエは、このコンセプトを更に掘り下げ、実際の展示スペース(壁、天井、床)の内部を全て、生地、幾何学模様、曼荼羅デザインで覆い、コンテナの空間の再創造を試みた。立体的なオブジェが一切ないにせよ、これは一種の彫刻インスタレーションとも言えるだろう。彼は、観者がインスタレーションとの相互作用から免れることのできない環境を作った—それはまるで観者に及ぼす視覚的かつ精神的なインパクトそのものが作品であるような、強要されたパフォーマンスアートのようである。   The revolution will not be televised, but it will most certainly be computed.It will be hashtagged, Facebooked, and Twitted. It will spread like a contagious viral disease – crossing […]