Monday, November 29th, 2021
Instagram: @the.container.tokyo Present: Blow 宮地祥平 Shohei Miyachi 13 December, 2021 – 28 February, 2022 Opening night: 13 December, 19:30-21:30 + live performance by Shohei Miyachi, 20:30 Catalogue • Diamonds Are Forever ft. The Container with Shohei Miyachi 28 January, 2022 At Club Metro, Kyoto In collaboration with: Jama […]
In dwam Risa Tsunegi 13 April – 29 June 2015 Opening night reception: 13 April, 19:30 – 21:30 Wall Dance, Risa Tsunegi, 2015. Mixed media, approx 170 x 120 x 17 cm. . 常木理早の作品は、60年代と70年代のアメリカのミニマリスト運動から大きく影響されています。 それに加え、ポスト抽象表現主義のエスセティックの影響も窺うことができます。 数多くのポスト抽象表現主義のアーティストのように、彼女の造る作品は一般的な姿を拒み、形のフィジオロジーに焦点を置きます。 彼女の作品に見る、形、重さ、重力、建物の空間を分割するような作品のあり方は、一見、アメリカ人彫刻家リッチャード・セラの作品を思い起こさせます。 しかし、彼とは違い、常木は驚きと欺瞞をテーマとします。 目で見える物が真実とは限りません。常木は、幻想を作り出す魔術師のようです。2009年の作品<ガーダー>の、重力に逆らうように空中に浮かぶ500センチの鋼のビームは、まさに魔術のようです。 この重たい鋼の柱は、あたかも動画の静止画のように時間が止まっているように見えます。常木がどうやってこの柱を時空に浮かばせたのかは、いくら見ても、分かりえないでしょう。 鋼に見える柱が実はフォームでつくられていて、コンクリートの地面に直面する角が実は地中に続く柱のサポートになっているのが、ツネギの魔法の秘密です。 同じく構造されているのが、彼女の2010年の作品<ドリップス>です。 鋼のフレームから垂れ下がるペンキの雫が、落ちる前の一瞬を永遠に止 め、保った作品です。また、この作品も<ガーダー>のように、ペンキはスポンジを使ってつくった作品です。 視聴者を惑わしていないのであれば、常木の作品は視聴者に空間の構造を尋ねています。 視聴者に新しい空間の見方を主張しているかのようです。 今回のザ・コンテインナーで展示する作品<In dwam>では、コンテナのサイズと空間を利用し、新しい空間とイルージョンをつくりま す。 インスタレーションは、<ウォール・ダンス>というミックスド・ メディアでつくられた壁と柱の構造と<アタッチメント>という天井からぶら下がる小さな彫刻の二つの作品です。 <ウォール・ダンス>(170x120x177cm)は、タイル張りの壁の中心にコンテナの天井から地面へ柱が突き刺さっている作品です。 一見すると、この作品は後ろの壁へと繋がるようであり、石膏で造られているように見えます。 しかし、よく見てみると分かるのが、壁が実は奥に向かっていくにつれカーブし、ハンドメイドの石膏製タイルで覆われた、フォームで形成された土台だということが分かります。 一見頑丈な構造も、映画の撮影現場のようにフェイクな模造でしかない幻想ということが明らかになります。 […]
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Monday, February 24th, 2014
Yu Araki 3 March – 19 May 2014 Opening night reception: 3 March, 19:30 – 21:30 Catalogue 荒木 悠はスパイである。彼は旅をし、身を隠し、発見する。あるときは周囲に溶け込み、またあるときは距離を置いて潜伏する。尾行し、撮影し、物語る。事実と歴史にフィクションと主観性を織り合わせ、文学、哲学、政治そして芸術を参照した驚くべき虚構を語り上げる。ドキュメンタリー風の情熱的な語りに満ちた彼のビデオ/フィルムは観る者たちを捕らえる罠であり、土地と次元を横断する文化的諜報活動の探訪の旅路へと彼らを送り出す。荒木の作品には常に窃視と移動の感覚が強く漂っている。パリの路上をバゲットの先端から覗き見し、韓国・大邱の駅ではじっと潜伏し、そしてベトナムではソーセージを作る。彼の作品は観る者をアイロニーとウィットたっぷりに人間を観察・体験する人類学者的なミッションへと誘う。それらの旅路は異なる国々の間の忘れられた歴史的繋がりを度々暴き出し、それらを政治的な結びつきへと調合する。あるいは、理論と文献の両方を内在する関係性を介して参照し、それらをひとつの物語へと丁寧に作り上げる。荒木が作品に用いる強い地域性を帯びた人物たち、そして彼らの習慣や規範に基づく行動や環境に対する省察からは、どこか異文化交流のような感覚を与えられることも多い。荒木は一定の基準にしたがって綿密なプランを立てるものの、その一方で偶然性や自発性の余地を残し、場所や状況そのものもまた語り手たることを可能にしている。おそらく潜在意識において、荒木の作品ではピーナッツ、貝、オリーブオイルにいたる様々な食物に注意を引かれることが多い。それは文化的なメタファーであると同時に政治的なカードでもあり、ステレオタイプ、文化的遺産、地政学、歴史から一本の縦糸が紡ぎ出すのだ。 作品において荒木はカメラ、自己、そして外界の関係性を熟考し、内と外の境界を探索しながら、様々な役柄の間をあざやかに推移する。いくつかの作品では彼はカメラを口の中に隠し、さらには体内に埋め込むことで、彼自身がカメラとなる。またあるときは荒木は距離を置いて撮影を行い、観客は荒木と共に身を潜め、彼の目を通じて対象をスパイし、静かに観察する。このインサイダーとアウトサイダーの役割転換が際立たせるのが、人間心理への彼の興味であり、社会の周縁に留まる彼の能力である。もっとも、もし社会の状況がそれを許すならば社会に溶け込むこともある。おそらくそれは、私たちが何処に住み、何を信じ、何をして、何を食べていようと似たもの同士であるということの寓話あるいは暗示なのだ。 このインサイダーとアウトサイダーの相互作用はThe Containerで展示される「ANGELO LIVES」(2014)において最も明らかである。このサイト・スペシフィックなインスタレーションは、荒木が2013年夏にスペインのサンタンデールで行ったレジデンスから着想を得ている。スペイン・イタリア・日本を舞台に歴史的なイメージや絵画や地図なども含めて撮影されたビデオのモンタージュからなる映像作品は、観客を連想と暗示の世界へとゆっくりと誘い込むコラージュである。外への展望と内なる瞑想が入り混じったカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『雲海の上の旅人』(1818)のタブローを参照して始まる映像は、絡み合う寓話の迷宮へとすぐさま出発する。 サンタンデールで制作され展示された元の映像作品は、サンタンデールの熟練の探検家Vital Alsar(1933生)のテキスト、そして17世紀にポルトガルからキリスト教弾圧期の江戸時代の日本に渡った若い宣教師セバスチャン・ロドリゴ(Sebastiao Rodrigues)の物語を描いた遠藤周作の小説「沈黙」(1966)に倣い、九つの章で構成されている。この映像作品では宗教地政学的なモチーフと「新世界」におけるオリーブの普及の間にフィクション的な相関性が築かれている。 「ANGELO LIVES」はこの物語により一層の抽象化を施して再探訪し、おそらくはフィクションから超現実への出発となるものである。映像を導くのはアンジロウ、あるいは彼の幽霊のナレーションである。アンジロウは、イエスズ会の日本における宣教活動の記録が示すところによれば、16世紀に殺人の罪でマレーシアのマラッカに送られ、その後は通訳として聖フランシス・ザビエルと二人の修道士と共に日本に戻ったとされている。 個人的解釈という概念は荒木の中心的な関心であり、この新しい映像作品の中心をなしている。疎外された存在であり一見して情緒不安定でもありながら通訳という行為の繊細さをすべて理解しているアンジロウは、ナレーターとして適切な選択だと考えられる。仏教徒に対して「GOD」を「大日」(仏教における神の一人)と訳するよう薦めた彼の提言は、ザビエルの「デウス(Zeus)」に取って代わられ、仏僧たちからの敵意を生み出す結果となった。 映像作品で用いられる音声は、明治維新後19世紀半ばに宗教の自由が再び確立されるまで弾圧を受け続けた「隠れキリシタン」と呼ばれる日本のキリスト教信者たちの抄本の朗読を含んでいる。文字の資料を残さないための密かな努力として、隠れキリシタンたちはラテン語、スペイン語、ポルトガル語、日本語で祈りの言葉を口頭で交し合い、それは時を経るにつれて「伝言ゲーム」の中で意味不明なものとなっていく。にもかかわらず、それはスペイン語と思われる言葉に似た響きを持ち、作品に謎めいた超現実的な雰囲気を与えている。また、隠れキリシタンたちがやはり弾圧を避ける目的で祈りの言葉を仏教の読経のように唱えた「オラショ (Oratio)」も作品に用いられており、その美しく切望に満ちた響きは逆再生されながらこの作品に神秘、切望、秘密、孤独という一層の美を与えている。 映像作品の中核をなすのはオリーブとオリーブオイルへのこだわりである。近作の荒木はアジア・オーストラリア・アメリカへのキリスト教の普及とオリーブオイルの輸出の間に自ら見い出した相関性を以前ほど押し出していないものの、オリーブの木と実はなおも長きに渡り確立されてきた文化・歴史・宗教の関係性を存分に用いるための象徴的な役割を与えられている。また、「ANGELO LIVES」で文化的アイデンティティや遺産を示すものとしての用いられるオリーブの木と実は、パレスチナの作家Raafat Hattabが切望の表現と民族性の象徴としてオリーブの木を用いた映像作品「Bidun Enwan, Untitled」 (2009) を想起させる。 カメラ、アーティスト、そして観客の関係性に対する荒木の関心は、実験性と視覚的祝祭性につながる。彼が以前に「entrevoir」(2013)でも行った口の中へカメラを隠す行為は、理論や概念を表現するためだけに用いられているのではなく、むしろ映画的な効果をもたらす好機として用いられている。露出オーバーの映像と口の形に切り取られたフレーミングは抽象性と超現実性の素晴らしい混合物となり、浜辺の男たち、水、そしてどこにでも現れるオリーブの実へと美しく推移しながら、(The Containerの形状によって定められた)矩形の次元の中であちらこちらへ踊り転げるオリーブを映す。 なによりも「ANGELO LIVES」は、アーティストが周囲の環境へ向ける眼差しとアーティスト自らが作り出した連想へのこだわり、すなわち、ひとりのアーティストがいかにして作品を制作するかの実例を示している (それはおそらく、スタジオで作業中のアーティストを観るシーンで最も際立っている)。スペインのバルと聖戦、消滅した幽霊たち、忘れられた宗教、文化的な歴史―彼の連想は視覚、思想、音響の謎めいた収集物からなる絡まった網の目へと私たちを連れ出し、宗教を旅と発見に結びつけていく。驚くまでもなく、映像作品の幕を下ろすのはまたしても口であり、編集のトリックによってそれは目へと変形し、観客を見つめ返す仮面のようなものとなり、瞳孔として視界の中央に再び戻ってきたオリーブはちらつきとまばたきを織り交ぜながら陽光の中で輝いている。 Yu Araki is a spy. He travels, he hides, he discovers; […]
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